奈良県明日香村において2月8日、小雨のなか飛鳥寺の西門跡横で、「飛鳥寺西方遺跡現地説明会」が行われました。
この場所は、645年の乙巳の変(大化の改新)や672年の壬申の乱など、飛鳥時代の重要な場所となった「槻の木の広場」とされる所です。
7世紀のある一時期、広場に2棟(東西17m・南北4、8m)の建物跡が見つかりました。同遺跡で初めて、確認された飛鳥時代の建物跡とされています。
ただ、柱の穴の形や大きさの間隔もそろっておらず、建物が役割を終えた後、、まもなく柱の穴は埋められ、周囲は砂利敷きに再整備されたようです。
穴(19個)の深さは、約0、3m〜1、2mで、穴を埋めた土には焼けた土(赤褐色になっていました)も混じっていましたが、建物自体が燃えた痕跡は見つからなかったようです。
日本書紀によると、「槻の木の広場」では、乙巳の変(大化の改新)直後に孝徳天皇が群臣らを集めて忠誠を誓わせたほか、蝦夷や隼人らをもてなす宴会が開かれたり、壬申の乱において近江朝廷の軍営が置かれ、大和にいた大伴連吹負が大海人皇子に味方して、飛鳥寺の西に陣取って飛鳥古京の守りにあたっていた、高坂王の近江軍を襲って勝利したと記されています。
激動の7世紀、首都中心部につくられた「槻の木の広場」が、どのように利用されたのでしょうか。
小雨で寒かったですが、ここで何が行われたか想像するだけでも、ワクワクするひと時を過ごすことができました!