泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

邪馬台国時代の「不彌国(ふみこく)の王墓ではないかともいわれている古墳(光正寺古墳)」

2019年10月17日 11時13分20秒 | 歴史

事情があり、しばらくは博多の方で過ごすことになりました。来年の2月頃には飛鳥に戻る予定です。その間、九州等の風景等を紹介させていただきたいと思います。

飛鳥での滞在は短時間でしたが、彼岸花の咲いている秋景色や秋の祭りである「彼岸版祭り・光回廊」、高取町の「案山子祭り」等を見ることが出来ました。

「やっぱり、飛鳥はいいな~!」

ところで前回は、邪馬台国時代の「奴国」を数回に分けて紹介させていただきました。今回も、邪馬台国時代の跡を追って歴史散策してきました。

今回は、邪馬台国時代の「不彌国(ふみこく)の王墓ではないかともいわれている古墳(光正寺古墳)」を、紹介させていただきます。

『三国志』の通称「魏志倭人伝」によれば、不弥国(不彌國)は、奴国(または伊都国)から東へ百里の位置にあると記されています。「 不弥国(ふみこく)」は、3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつです。3世紀中頃は中国の「魏志倭人伝」に当時の日本のことを「倭国」として紹介されています。その倭国には色々な国があったことが記されています。不弥国については、「フミ」という音と奴国の東へ百里と記されていることから、その位置を福岡県宇美(うみ)町に比定する説が有力ですが、伊都国や奴国ほどに定説として定まっていないようです。

不弥国の比定地として、九州説では宇美(福岡県粕屋郡宇美町)や嘉穂(福岡県飯塚市)とする説があるようです。今回は、宇美(福岡県粕屋郡宇美町)の歴史散策をしてきました。

〇「光正寺古墳」は、福岡市のお隣の糟屋町の北西部に位置し、3世紀後半に築かれた郡内最古で最大の前方後円墳(全長約54m、後円部径約34m、前方部長20mで前方部2段築成、後円部3段築成)で、邪馬台国時代の「不彌国(ふみこく)の王墓?」ではないかともいわれています。築造年代は、第1主体部から出土した古式の土師器で甕の制作年代が3世紀中頃から後半あり、県内の前期古墳の中でも最古期の古墳に位置づけられます。また、「光正寺古墳」は糟屋郡内最大の前方後円墳であることから古墳の被葬者は、当時糟屋地域を支配した豪族(王?)の墓と考えられます。
不彌国の所在地は、「嘉穂説」と「宇美説(粕屋)」に分かれていますが、「光正寺古墳」の調査で「宇美説=粕屋平野説」が有力な地域として考えられるようになりました。この古墳は、標高46m前後の東西方向に延びる、丘陵上に築かれています。古墳の築造は、地山整形により1段目と2段目のテラスが作り出されています。2段目のテラスより上位は盛り土を行っています。墳丘周囲には2段目以上で葺石が施されています。現在は、国指定史跡であり公園として綺麗に整備されています。高台に築かれており眼下には、「不彌国(ふみこく)」?(宇美町)が一望できます。また、北側200~300m位の所には「七夕池古墳」を見ることが出来ます。当然のことですが、立地の良い所に古墳が築かれていました。

           

〇「七夕池古墳」は、糟屋地区最大の円墳で(直径29メートル)、古墳時代前期末の竪穴式石室からは、九州で8遺跡しか出土例がない琴柱形石製品や、刀、鏡、3,300もの玉が出土しました。七夕池古墳は、南側に近接する宇美町の前方後円墳「光正寺古墳」とともに、1975(昭和50)年6月26日に国指定史跡となりました。3段に築成された円墳には、幅3.5メートルの周溝が巡り、高さは3.7メートルとなります。埋葬施設は竪穴式石室が主体部で、木棺内に壮年女性の遺体を安置し、豪華な副葬品を埋葬していました。これらは、銅鏡(内行花文鏡)・琴柱形石製品・刀・玉類等で、志免町歴史資料室に展示しています。以上のことから築造年代は4世紀末で、畿内との関係が深かったと考えらているようです。邪馬台国時代の跡、探せば色々ありますね~。また、歴史散策して紹介できればと思っています!

        

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