奈良県明日香村において、8月26日に「小山田古墳」の現地説明会が行われ、多くの方が来られていました。
今回は、飛鳥時代で最大級の石室があったとみられる「小山田古墳」の現地説明会について紹介したいと思います。
「小山田古墳」は、飛鳥時代最大級の方墳です。「小山田古墳」を調査している県立橿原考古学研究所(橿考研)は8月24日、古墳の横穴式石室の通路である「羨道(せんどう)」の長さが少なくとも8.7メートルあることが分かったと発表しました。同時期で最大級の「石舞台古墳」の羨道に匹敵する可能性があるといされています。
発掘調査は7~8月に、同村の県立明日香養護学校の校舎を挟み、南北2カ所で実施されました。北側は約10メートル四方、南側は東西約8メートル、南北約10メートルの範囲にわたって行われました。
校舎南側の調査では、石を抜き取った穴を八つ確認されました。穴は大きいもので、長さと幅がそれぞれ2・5メートルほどあり、北に向かって2列に並び、羨道を構成していました。これらの穴のうち、前回の調査で一部が発見されていた一番南側の穴二つが、羨道の入り口部分(羨門)に当たると確認されました。調査結果を総合すると、羨道は幅約2.6メートルで、長さは少なくとも8.7メートルあるといい、さらに北に向かって延びているとみられているようです。
「小山田古墳」はこれまでの調査で、一辺が約70メートルと推測されており、出土品などから630~640年ごろに造られたと考えられています。橿考研は、中大兄皇子(天智天皇)の父、「舒明天皇が」最初に葬られた墓の可能性があるとしている一方で、当時権勢を振るった大豪族の「蘇我蝦夷」の墓とする説もあるようです。
今回とても興味をひかれたのは、石の抜き取り穴の中で、くさび(石を割る道具)を打った跡とみられる、江戸時代後半の「矢穴」がついた石を見ることが出来ました。
古墳そのもは、7世紀後半には壊されとされていたようですが、石室の石は、約1000年後の江戸時代まで残っていたのでしょうか・・・
また、この日は「小山田古墳」の西側にある「菖蒲池古墳」が5年ぶりに扉が開けられ、横穴式石室の中にある漆塗りの石棺を身近に見ることが出来ました。
「小山田古墳」に並ぶように築かれているのが「菖蒲池古墳」です。一辺約30mの方墳です。この2つの古墳を、蘇我蝦夷が自分自身と息子・入鹿のために生前に築いたとされる「双墓」ではないかという説も出てきて、注目を集めています。
はたして、「小山田古墳」や「菖蒲池古墳」の主は一体誰なのでしょうか? 「歴史は、ロマンですね~!」
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