春の陽気に誘われて、久しぶりに「佐保路」を散策してきました。「佐保路」は、奈良東大寺の西の門・転害門から西へのびる道が、平城京の南一条大路~法華寺までを「佐保路」と呼び、その先は「左紀路」となって西へのびていて史跡の多い路です。
以前、一度歴史散策したことがあります。その時の様子を、ブログ「万葉人が愛した・佐保路」(2015年2月5日)で紹介させていただきました。
今回は、その時に行けなかった所を中心に、佐保路「東院庭園と周辺の史跡」散策の様子を紹介したいと思います。
前回の散策では、時間の都合で行けなかった「東院庭園」や「法華寺」・「海龍王寺」・「佐紀盾列古墳群」を歴史散策してきました。
〇「東院庭園」は、現在の平城宮跡の東側エリア、宇奈多理坐高御魂神社や法華寺エリアの近隣に位置にあります。「奈良時代の庭園風景」を緻密な調査により復元した貴重な庭園です。平城宮は他の日本古代都城の宮殿地区には例のない東の張出し部を持ちます。この張出し部の南半は、奈良時代をつうじて「東宮」とよばれていたようですが、孝謙(称徳)天皇の時代にはとくに「東院」とよばれていました。
1967年、平城宮東張出し部の南東隅に大きな庭園の遺跡が発見されました。この場所は『続日本紀』にみえる「東院」にあたることから、発見された庭園は「東院庭園」となづけられました。東院庭園は東西80m×南北100mの敷地の中央に複雑な形の汀線をもつ洲浜敷の池を設け、その周囲にはいくつもの建物を配していたことが確認されました。
称徳天皇は、この地に「東院玉殿」を建て宴会や儀式を催しました。最近の研究では、光仁天皇の「楊梅宮」はもとより、聖武天皇の「南苑(南樹苑)」もこの場所を中心として営まれていたとする説があります。いずれも、発掘された「東院庭園」と深く関わる施設だと考えられているようです。
庭園は中心部に行けを配置し、その周囲が建築で囲まれる形式をとっています。水面に張り出す露台を備えた檜皮葺(ひわだぶき)建築をはじめ池辺の施設群は、法隆寺にあった堂宇などをもとに復元されたようです。また、日本最古の「築山」といえる「仮山」と呼ばれる石組みが設けられていたり、池の周囲が複雑な曲線形を描くなど飛鳥時代の庭園とは異なった繊細な風景を生み出して、日本庭園の原型ともいえる庭園です。
飛鳥にある「飛鳥京跡苑池」とは違った「東院庭園」は、是非とも見たかった所でした。ボランティアガイドさんの案内のもと、復元された奈良時代の庭園をのんびりと散策することができました!
〇法華寺は、創建当初から千二百五十年以上続くお寺です。光明皇后は、藤原不比等(ふじわらのふひと)没後、屋敷を皇后宮とし、その後、総国分尼寺 法華滅罪之寺とされました。その後、略称として「法華寺」と呼ばれるようになりました。東大寺が総国分寺、法華寺が総国分尼寺となされ、『続日本記』には、光明皇后の勧めによると記されています。
〇奈良県北部の佐紀丘陵の南西斜面先端部に立地するコナベ古墳は、大小60あまりの古墳よりなる佐紀盾列古墳群の東群に属し、その東にはウワナベ古墳、北西には磐之媛命(仁徳天皇皇后)の陵墓に治定されるヒシアゲ古墳があります。コナベ・ウワナベ・ヒシアゲの3基の古墳は、平城宮大極殿跡の北東約750メートルの地点に立地します。どうして、このような場所に大きな古墳群ができたのでしょうか?現在、古墳の周辺は整備されており、地元の方がのんびりと散歩されていました!
春の陽気に誘われての「佐保路」は、とても気持ちがよく「春の大和路」の散策のコースとしてお勧めですよ。次は、「左紀路」を散策したいと思います。
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