久しぶりに「大宰府」に戻ってみると、テレビや新聞等で大騒ぎになっていました。新たな元号「令和」は、ここ「大宰府」とも関わりがあるということのようでした。
新元号が「令和」と決まったことを受け、太宰府市は「令和」の典拠なった万葉集の序文に続く歌が奈良時代の初めに「大宰府」で詠まれたものだと発表しました。新元号「令和」のゆかりの地は,1300年前の「大宰府」にあるといわれています。新元号「令和」の由来は梅花の宴がうたわれた万葉集の序文になっており、大宰府の長官である「大伴旅人」が催したとされる「梅花の宴」が開かれた邸宅は、大宰府政庁跡の周辺や「坂本八幡宮」の付近にあったという説があるそうです。そのため、「大宰府」と「坂本八幡宮」が新元号「令和」のゆかりの地として話題となっていました。
今回は、新元号「令和」の聖地は大宰府?を紹介したいと思います。
新元号「令和」の典拠となった万葉集の序文に続く歌は、奈良時代の初め、当時の大宰府の長官「大伴旅人」の邸宅で開かれた「梅花の宴」で詠まれたということです。
「梅花の宴」は、当時としては一般には珍しかったという中国から渡ってきたばかりの「梅の花」をめでて開かれたとされています。
筑前の守だった「山上憶良」をはじめ大宰府や九州の高官たちが参加し、梅の花を題材に和歌を披露しあったといいます。
太宰府市によると、宴が開かれた邸宅の場所については諸説残されているということですが、そのうちの1つが太宰府天満宮から南西におよそ2キロほどの「坂本八幡宮」付近とされています。市文化財課によると、旅人邸は、役所跡が残る大宰府政庁の北西部にある「坂本八幡宮」周辺に存在していたというのが有力とされています。ただ、発掘調査などにより、他にも複数の候補地があると言われています。
その一つが、政庁東側の月山東地区官衙(かんが)跡(現在、仏心寺が建っている所)です。九州歴史資料館の学芸員は「万葉歌で歌われた丘陵地帯に面している」と理由を挙げています。他に、高官が使用した陶器や装飾品が出土し、官人の居住区だったと考えられる政庁南側の大宰府条坊跡周辺も候補の一つだといわれています。はたして、宴が開かれた邸宅の場所はどこなのでしょうか・・・
「初春の令月(れいげつ)にして、氣淑(きよ)く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後(はいご)の香を薫す。」
この「梅花の歌三十二首并せて序」には、太宰府の長官であった「大伴旅人」が梅花の宴を開いたときに詠まれた歌32首が収録されています。宴が始まるにあたって述べられた、前書き(序文)にあたるものです。
天平二年正月十三日(西暦730年2月8日)に、太宰府の長官の「大伴旅人」の家に集まり、梅花の宴を開きます。
「季節は、初春のよい月で、大気もよく風も穏やかになり、梅の花は鏡の前(に座る美女たちが化粧に使う)白い粉のように(白く)開き、蘭は(身にまとう)装飾品の香りのように薫っている。」
「令和」は奈良時代、福岡県太宰府市にあった大宰府の長官「大伴旅人」邸で開かれた「梅花宴(ばいかえん)」(梅の花を見る宴会)で詠まれた32首の歌の序文から採用されました。
この宴の様子は、大宰府政庁跡の史跡そばにある「大宰府展示館」(公益財団法人 古都大宰府保存協会運営)には、「大伴旅人」の邸宅で開かれた「梅花の宴」の様子を、博多人形を使って再現した模型が展示されています。
宴会が開かれた候補地である大宰府政庁跡の傍にある「坂本八幡宮」は、「大宰府歴史の道」沿いにありますが、普段は地元の人しか行かないような神社です。「大伴旅人」邸で開かれた「梅花宴(ばいかえん)」の候補地として紹介されたせいか、多くの人でにぎわっていました。(以前、紹介させていただいたブログ「梅花の宴」では、梅が満開の様子を紹介させていただきました。)
まさか、いつも散策していた所が新元号「令和」の地?となろうとは・・・
梅の花は終わっていましたが、「大宰府」は桜が満開でとても綺麗でした。「飛鳥」とともに「大宰府」は、「万葉集」の世界が味わえる素敵な場所ですね~!
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