日本福音ルーテル札幌教会 札幌礼拝堂

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教会学校 午前9時より 主日礼拝 午前10時半より

わたしたちの日々の命は、復活の日に向かう旅程である。

2009年05月09日 | 札幌礼拝堂

   「イエスは死んで蘇った」      重富克彦牧師   札幌教会月報 KaIros 4/12号より

 人は例外なく死を迎える。未来の可能性は人それぞれだが、確実なことは、すべ

死に向かっているということである。

 死んだらどうなるのか。いろんな考えがある。最近は、伝統的な仏教とは別に、

ピリチュアルブームとのからみで「輪廻」ということもよく聞くようになった。宇宙論

な視野から、あるところに「帰る」のだろうと考える人もいる。統合医学を提唱実

している帯津良一氏は「人は虚空に帰る」という。「根源」というのは「海のような

べての清濁をのみこみ包み込むところ」らしい。いずれも、直感に由来するもの

 直感ではなく、経験から命をかけて語りだした者たちがいた。イエスの弟子たち

である。イエスの惨めな最後を見て、みんな失望して逃げた弟子たち。卑怯者だっ

た。ところがその弟子たちが、ある時を境に命がけでイエスは復活したと語り始め

たのだ。生半可な作り話で、そこまで変われるはずがない。聖書に書いてあるよう

に、彼らは確かに、復活したイエスに会ったのだ。だから二度と動じることはなかっ

た。殉教にも耐えた。

 イエスが実際に復活して姿を現してくれたという事実があれば、もう死んだからど

うなるのだろうという推測は要らない。

 イエスは、しばらくの間は、復活の後、この世の姿形をとりながら、しかも、時空空

間を越えて、弟子たちの間に出現している。復活して昇天するまでの四十日の間

のことである。それは、イエスの復活が、幻覚や妄想ではなく事実であることを、

弟子たちが信じるのに必要な時間でもあった。

 この世の命を生きた果てに死があり、復活があるのではない。復活に向けて、

この世の命があり死がある。この余の命は、復活への旅程なのだ。「この世の命」

と「永遠の命」、信じる者にとっては両方あわせて「我が命」である。それは無限に

広がる想像を超えた壮大なドラマでもある。

 復活したらどんな姿になるのだろうか。「朽ちない命」「永遠の命」「霊の体」「内な

る人」「神の子の姿」「天使のような者」、聖書に様々に表現されるその「復活の命」

は、、どんな姿形をしているのだろうか。

 残念ながら、わたしたちの想像力はどうしても時間空間に制約される。限界があ

る。でも今はそれでいい。向こうの方に光が見えていれば、それでいい。そこが神

の懐。そこに帰る。神の懐に帰り、そこに復活するのである。それからまた素晴ら

しい命の舞が始まる。死はいささか暗い。でもその向こうはすごいのだ。