心身社会研究所 自然堂のブログ

からだ・こころ・社会をめぐる日々の雑感・随想

3・11以後に向けて(10-1)

2011-08-10 12:22:00 | 3・11と原発問題
とすると戦後日本の原子力ブーム、あるいはその先駆であるテレビ・ブームとは何だったのか、なぜあれほど大きな力をもったのかを問うことは、そのまま戦後世界の光と影、そこでのアメリカの位置を問い返すことになってくるでしょう。

テレビも原子力「平和利用」も、単に情報メディアやエネルギー供給手段であるにとどまらず、何よりもアメリカの世界戦略・対ソ戦略上の最も強力な軍事的・外交的武器であり、またそうであったからこそ、日本でもこれほど目覚ましく発展してくることができたことを知らなければなりません。
アメリカは第2次大戦に勝利し、原爆投下で全世界を威圧する地位を獲得したとはいえ、戦前まではソ連領内にとどまっていた共産圏が、この戦争でかえって東欧へ、朝鮮半島へ、さらには中国へと拡大したことに(ほとんど敗北に匹敵せんばかりの)大きな危機感を抱き、その封じ込めに戦後の一切の政治的・外交的・軍事的な関心を集中せずにはいられませんでした。そのために、狭義の政治・外交・軍事の手段だけにとどまらず、国防総省・(1947年創設の)CIA・(大統領直属機関として設立された)「心理戦局」などを駆使して、「心理戦」(Psychological Strategy)を展開していくのです(なお、「心理戦」のため軍事・政治・経済にまたがる総合的戦略を立案または調整する大統領直属の機関だった「心理戦局」は、やがて1953年9月に、アイゼンハワー大統領の下で廃止され、CIAに統合集中されて、以後CIAが今日知られるように肥大化することになります)。
この戦略のもとで、まずテレビが、共産圏の周辺国に反共イデオロギーを浸透させる「心理戦」の格好のメディアとして動員され、次いで原子力が、「平和利用」の形をとることで、軍事的にも心理的にも、反共自由主義陣営のブロック化の紐帯として動員されることになったのです。

なかんずく日本は、ソ連・北朝鮮に対峙する最前線の反共の砦として、地政学的にも枢要な位置を占める地域の1つでした。占領後もいかに実質的な植民地支配を継続するか、アメリカにとって、対日「心理戦」は喫緊の課題となります。日本の共産化を防ぎ、共産主義の防波堤とするため、アメリカの政治的意図は、日本に天皇制を護持させること、「本土」は経済成長によって貧困から離陸させ、同時に“アジアの工場”として復活させること、一方「沖縄」は軍事基地化して米軍の駐留を確保すること、しかしやがては日本全体に憲法を改定し、(核武装を除く)再軍備をさせ、いざとなれば共産圏諸国と直接戦う役目を日本に負わせられるようにすることでした。わがニッポンのナショナリストたちが、日本国家の真の独立の要件として主張してやまない、天皇制も経済成長も改憲も再軍備も、いずれも実は、アメリカの支配のために予め日本にあてがわれた、植民地主義的な制度以上のものではなかったのです。それらを確立すればするほど、ますます日本はアメリカの属国となっていく仕組みになっています。

とすればなおさら、そのことにニッポン人たちが宥和的な態度をとりつづけ、親米反共的なメンタリティを維持してくれることが必要です。そこで、とくにサンフランシスコ講和条約以降、つまり占領が終結して日本が独立して以降、アメリカは「心理戦」を盛んに行なっていきます。1953年1月30日には「対日心理戦計画」(PSB D-27)を策定、その趣旨は、「日本の知識階級に影響を与え、迅速なる再軍備に好意的な人々を支援し、日本とその他の極東の自由主義諸国との相互理解を促進する心理戦――を速やかに実施することによって中立主義者、共産主義者、反アメリカ感情と戦う」と外交文書には解説されているそうです(有馬哲夫『原発・正力・CIA』pp.63-4)。
すなわちアメリカは、占領終結後も米軍の駐留をつづけて、まず日本を<軍事的再占領>の体制下におくと、その正当化も狙いつつ、テレビをはじめメディアの支配によって<心理的再占領>の体制を打ち立て、さらにその「心理戦」の一環として原子力の「平和利用」を進め、あわせて保守合同による安定的な親米政権の樹立によって<政治的再占領>の体制も確立し、その政権への国民の支持を確保するのにも「心理戦」を存分に用いるという(有馬哲夫『日本テレビとCIA』、pp.273,300)、「心理戦」を中軸にすえた<軍事的再占領><心理的再占領><政治的再占領>の複合的な間接的占領体制=植民地支配体制を構築するのでした。

ところで「心理戦」となれば、本家本元の心理学はどうだったのでしょう。ちょうど講和条約前後の1951年には、ミネソタ大学のウィリアムソンを委員長とする(第2次)アメリカ教育使節団が来日し、その勧告により、アメリカの民主主義を代表するものとして(専らロジャーズ派の)「カウンセリング」が紹介され、大学等に広く導入されます。カウンセリングの専門家の来日はさらに50年代半ばにかけて相次ぎ、ロジャーズも来日、1950年代の日本は「第1次の心理学ブーム」(藤永保『「こころの時代」の不安』、p.7)に沸きかえるのでした。ちょうどテレビ・ブーム、原子力ブームの昂揚と時期を同じくするものです。ちなみにこの頃、50年代後半~60年代初めの少なくとも5年間、研究者としても最も全盛期にあったロジャーズは、CIAとの決して浅からぬ結びつきのあったことが明らかになっています(Demanchick,S.P.&Kirschebaum, H., Carl Rogers and the CIA, in Journal of Humanistic Psychology,48-1,2008)。それでなくとも、そもそも戦後日本における原子力の展開過程と(臨床)心理学の展開過程の間には、興味深い並行関係があるといえるかもしれません。それが見えにくいとすれば、見えにくくする<心理学ムラ>のごときものができているのかもしれません。

戦後日本におけるテレビと原子力は、まさにこうした底深い文脈においてこそ捉えていく必要があるでしょう(同様にして日本の心理学の歴史も、こうした底深い文脈において捉えかえされる必要があるでしょう)。


<つづく>



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3・11以後に向けて(9)

2011-08-02 19:44:00 | 3・11と原発問題
たとえば関東大震災の際に、あの朝鮮人大虐殺を煽るデマを、官憲側から(!)広めるのに積極的に手を貸した当時の警視庁官房主事(これは警視総監に次ぐナンバー2の、政界をも裏から自在に操作する枢要な地位でした)が、戦後は”テレビの父””プロ野球の父””プロレスの父”、さらには”Jリーグの父”など数々の挙国的大衆文化ブームの仕掛人となっただけでなく、何より原子力ブームに火をつけ、”原子力の父”と呼ばれるに至った張本人でもあったことを、果たして偶然の一致として片付けるべきでしょうか。

その男の名こそ、ほかでもない。泣く子も黙る、読売新聞・日本テレビのドン、正力松太郎です。並外れて権勢欲と嫉妬心が強く、エゴイスティックなリアリストで、大衆心理の掌握にかけては天才的な嗅覚を示した正力は、関東大震災後の世を震撼させた難波大助の皇太子(後の昭和天皇)狙撃事件で警視庁を引責辞任すると、読売新聞を(後藤新平に出してもらった金で)買収して、たちまち朝日・毎日に並ぶ三大紙に育て上げ、戦後はただちにテレビ放送網の設置で公職追放の解除をねらい(そして作戦成功)、次いで原子力の推進で総理大臣の座をねらって(こちらはもう一息のところで失敗)、政治的な行動を起こしたのでした。
総理大臣になるために、まずは1955年2月、69歳にして郷里の富山2区から代議士に初出馬し、(湯水のようなカネと人海戦術で辛うじて)初当選します。原子力導入には確固たる政治的基盤が必要との信念から、警視庁時代の人脈をフルに生かした裏工作を自ら買って出て保守合同を実現(いわゆる「55年体制」の成立・・・とすると正力氏は、ある意味では“55年体制の父”でもあったわけです)、その論功行賞人事で入閣とともに初代の原子力委員会の委員長となり、原子力推進のために科学技術庁を創設し、自ら初代長官を兼任する一方、その原子力推進構想は、GHQに解体を指令されていた財閥に、事実上、復活への確実な足がかりを与えることにもなりました。こうやって正力の野心に引きずられる形で、<原子力ムラ>の原型が、おぼろげながら少しずつ整えられていったのがわかります。
とはいえ、これら正力の業績の多く、とりわけテレビと原子力の導入を実質的に手がけたのは、正力の“影武者”で自他共に認める反共主義者・柴田秀利であり(柴田秀利『戦後マスコミ回遊記』)、正力本人はせっかくの”原子力の父”の称号とは裏腹に、原子力そのものには全く無知無関心な男でした(ある委員会では、核燃料を「ガイ燃料」と発言して満座の失笑を買っています)(佐野眞一『巨怪伝』pp.505,525-6)。しかし柴田の手腕とアメリカン・コネクションとによって、テレビそして原子力の導入は、さらにゴルフ・ブーム、遊園地建設、ディズニー・ブームから後の東京ディズニーランド創設にまで至る広大な副産物の裾野を持つことになります。

実際、ゴルフでいえば、ゴルフ界のオリンピックともいわれる「カナダ・カップ」世界選手権大会の創始者は、原子力企業ジェネラル・ダイナミックス社の会長兼社長にして、1954年5月に正力~柴田の招きで来日して日本中を原子力ブームの渦に巻き込んだ「原子力平和利用使節団」の団長ジョン・ホプキンスであり、この来日を機に1957年10月、第5回「カナダ・カップ」が日本で開催されることになって、これを柴田の陣頭指揮で日本テレビが4日間ぶっ続けで世界初の完全生中継、しかも日本人の中村寅吉が個人優勝・団体優勝ともかっさらったことから、一気にゴルフ・ブームとなり、それまで一部特権階級の道楽にすぎなかったゴルフの今日にまで至る大衆的普及の基礎が作られたのでした。
この成功にとどまらず、さらに柴田は、「亭主がゴルフにあまり熱中すると、女房を顧みなくなるという万国共通の弊害がある。これをゴルフ・ウィドウという」とか言って、ゴルフコースを核にした遊園地を正力に作らせ、これが「よみうりランド」となって(『巨怪伝』p.567)、高度成長期の遊園地ラッシュの先鞭をつけることになります。「よみうりランド」建設にあたって正力は、アメリカのディズニーランドやユニヴァーサル・スタジオのテーマパークを綿密に調査させています。やがて20年も後に、日本にも「東京ディズニーランド」が建設されるわけですが、これもやはり、ウォルト・ディズニーと原子力の切っても切れない密接な関係から生まれたものであることはあまり知られていないようですね。
もともと戦前から中南米諸国向けなどに、反ナチス親米プロパガンダ映画を作製していた実績のあるディズニーは、1953年末にアメリカ大統領アイゼンハワーが行なった有名な国連演説”atoms for peace”(平和のための原子力)のためのアニメ入りプロパガンダ映画『わが友原子力』を、アメリカ海軍と上述の原子力企業ジェネラル・ダイナミックス社の要請で製作し(面白いことに、数あるウォルト・ディズニーの伝記類を見ても、この事実はほぼ全く言及がありません)、これがやがて日本でも1958年の元旦に日本テレビで放映されて大成功を収め、これを機に同年8月末からは『ディズニーランド』のテレビ放映が開始されることになるのです。毎週金曜夜、プロレス中継と隔週交互の放映で、この時間帯は黄金の番組枠になったとか。そしてこの延長線上に、ディズニーと柴田の交友関係、正力と京成電鉄の(昭和3年の「京成疑獄」以来の)因縁深き関係から、早くも1961年には、京成電鉄の川崎千春に日本版のディズニーランドを浦安沖の埋立地に建設する構想が生まれており、これが紆余曲折をへた末、川崎の跡を受けた高橋政知の手により、1983年に「東京ディズニーランド」として開園するに至るのです。ちなみにその高橋は、柴田の存在なしには「東京ディズニーランド」は実現していなかっただろうと述懐しているそうです。(『巨怪伝』p.478、有馬哲夫『原発・正力・CIA』pp.218-20)

こうして正力~柴田の仕掛けた原子力ブームは、テレビ・ブームともども、自身の領域だけにとどまらず、プロ野球ブーム、プロレス・ブーム、サッカー・ブームから、ゴルフ・ブーム、遊園地ブーム、ディズニー・ブームといった数々の大衆消費文化の広大な裾野を形成しました。お父さんはテレビでプロ野球やプロレスを見、会社のつきあいや接待でゴルフに興じ、家では妻子とテレビを見、遊園地に行き、息子は野球やサッカー、娘はディズニーランドみたいなステレオタイプな大衆文化のライフスタイルは、このように実は、すべて原子力とワンセットになって持ち込まれ、定着したものだったのです。ニッポンの大衆たちは、誰も彼も、お父さんもお母さんも、息子も娘も、一家ぐるみ会社ぐるみで、原子力のもたらす単に電力そのものというより、その周囲に賑やかに繰り広げられるいわば「大衆文化複合体」の丸ごと全体を享受することによって、「原子力体制」のこの上なく幸福な<受益者>として、組み入れられてきたのでした。

このように、原子力ブームの裾野は限りなく広く、懐は限りなく深いです。こうした原子力ブームを介して、<原子力ムラ>は次々と版図を広げ、あたかも全「国民」生活すべての隅々に至るまでが、そっくり<原子力ムラ>の内部に繰り込まれているかのような、いうなれば<一億総原子力ムラ>のごとき装いをまとって、「原子力体制」は存立してきました。これほどの触媒力を秘めた原子力ブームとは、いったい何だったのでしょうか。原子力ブームはなぜこれほどまでに深甚な影響力をもちえたのでしょうか。
それは、ここまでの記述でもチラチラと垣間見られたように、単にブームの仕掛人・正力の政治的な野心や興行師的な天才、あるいは柴田の国士的信念だけによるのでなく、何よりもそれらがアメリカの世界戦略、とりわけ対ソ戦略、その一環としての対日戦略と利害が合致するものであったからにほかなりません。とすれば<原子力ムラ>は、もはや<一億総原子力ムラ>にすらとどまらず、いやむしろそれ以前に、その究極の大奥としてアメリカを後ろ盾に控え、アメリカなしにはそもそも存立しえない、<アメリカ植民地ムラ>でもあるのだということを露わにせずにはいなくなってきます。


(文中敬称略。次回以降も同様)


 <つづく>

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3・11以後に向けて(8)

2011-07-27 23:38:00 | 3・11と原発問題
では本命とは何でしょうか。それはほかでもありません。言論や情報メディアのあり方に戯画化して表われる、僕らのこの社会のあり方(構造)そのものです。いいかえれば、僕ら1人1人の存在のあり方(構造)そのものです。そして、そうした僕らみんなのあり方のエッセンスを、現代日本において最もグロテスクに凝縮した象徴が、「原子力体制」(吉岡斉)という構造ではなかったかと思うのです。

原子力体制とは、狭義には、さしあたり<原子力ムラ>といわれているものに当たります。<原子力ムラ>とは、今を時めく飯田哲也氏が、かつて自らも技術者としてそこに深く関わった体験から1997年に命名したもので、飯田氏によれば、電力会社、原子力産業、原子力官庁、研究機関の「産・官・学の利益共同体」とされています(『論座』1997年2月号)。具体的に補足すると、

 ・「電力会社」とは、(沖縄電力を除き)原発を擁する全国9電力会社、そしてその傘下の日本原電、日本原燃
 ・「原子力産業」とは、原子炉メーカー(とくに東芝・日立・三菱)、ゼネコン、商社、金融機関など
 ・「原子力官庁」とは、通産省~経産省とくにその下の「資源エネルギー庁」「原子力保安・安全院」、科学技術庁~文部科学省の関係各課、総理府~内閣府とくにその下の「原子力委員会」「原子力安全委員会」など
 ・「研究機関」とは、東大を頂点とする大学、原子力機構(原研と動燃~核燃料サイクル開発機構とを統合)・理研・放医研など独立行政法人研究機関、電力中央研究所など電力会社系民間研究機関など

からなるものといえましょうが、これに政治家(中曽根康弘~田中角栄から電力族の自民党議員と、電機連合・電力総連系の民主党議員等)、マス・メディア(正力松太郎の読売新聞・日本テレビ~朝日新聞の原発推進への転向~オール・メディアの原発翼賛体制~今日のいわば”原子力記者クラブ”)をも加えて、「産」「政」「官」「学」「メ」の一大複合体とでもいうべき規模まで広げて考えるのがよさそうに思います。
とりわけ1950年代中・後半の原子力導入期に、「政」(”中曽根予算”や”正力構想”)と「メ」(読売新聞の執拗な原子力キャンペーン)が果たした牽引車的な役割は決定的で、以後やがてこの複合体の中核を占めることになる「産」「官」すらも、最初はこの「政」と「メ」の強烈な働きかけに覚醒させられて動き始め、そのあと急速に「政」と「メ」を従えるに至ったのでした。
それに対し「学」は、最初期から今日に至るまで、つねに顧問的な重要な位置に祀り上げられながら、現実には他をリードする積極的な指導力を少しも発揮することはできませんでした。”学者なんて宴席に侍らせる芸者みたいなもの”という「産」「官」界では公然の秘密を、自ら地で行って証明してしまったのでしょうか。

さてこのように<原子力ムラ>は、原子力という最先端の巨大科学技術を中心にすえながら、その下で「産」「官」を中核に、「政」「学」「メ」・・・と各セクターが一個のムラのごとくに閉鎖的な利益共同体を形成し、この共同体内における合意が原子力政策に関する意思決定権を事実上独占して、そのまま「国策」として強い効力をもつ一方、共同体外部の影響力は最小限となるように限定され排除されています。
どこか天皇制国家の”皇室の藩屏”たちとよく似て、その内部では、互いにナワバリ争い的な利害対立をつねに孕みつつも、全体としては原子力推進という共通の方向性の上にもたれあい、カネ・人・情報の流れを互いに融通し共有しあいながら(献金・人事交流・天下り・インサイダー談合等々・・・)、意思決定の最終的な責任の所在は巧みに曖昧化し、それでいて外部に対しては、まさにムラ的な閉鎖性をあらわにし、おのれの延長として服従させうる限りにおいて積極的に関わりをもち、カネ・人・情報等も支配の切り札という限りでのみ按配するのです(補助金・交付金・人事干渉・トラブル隠し・原子力神話等々・・・)。

このため<原子力ムラ>にとって外部とは、自らが支配する対象でこそあれ、自らをチェックする主体として対峙することなどはじめからありえないものなのです。実際、本来チェック機能を果たすべき、「産」における労働組合、「政」における議会、とくに(革新系)野党、「官」における規制機関、「学」と「メ」における批判的言説や代替案とその論者、さらには「産」「政」「官」「学」「メ」すべてに対する司法、等々・・・これらいずれもが、懐柔され換骨奪胎されて(時には抹殺されて)、むしろ<原子力ムラ>を補完する準構成員のようにすらなってしまうのでした。あるいは、それを嫌って”反-原子力ムラ”の立場をとっても、往々にしてあたかも”反原子力-ムラ”というもう1つの<原子力ムラ>のごときになってしまって、結局かえって<原子力ムラ>(的なもの)を維持し増殖させる結果となりかねませんでした(論者によっては、反原発運動も<原子力ムラ>の構成要素の1つに数えています)。

この増殖力はどこからくるのでしょうか。興味深いことに、もともと東電の社内では、ずいぶん前から、原子力本部(技術者約3千人)そのものが<原子力村>と呼ばれてきたのだそうです(朝日新聞5月25日付、志村嘉一郎『東電帝国その失敗の本質』pp.94-5,213)。原子力部門は他の部門との人事交流もなく、閉ざされた部門として成長し(尤も他の部門も、それぞれ”労務ムラ””営業ムラ””総務ムラ”等々になっているようですが)、その内部では原子力本部長が絶対の権限をもつヒエラルヒーを形成し、社長や会長といえども口出しできない「聖域」となってきたとのこと。なかでも一切の配電の権限を握るその運転室は、「神の座」と畏れられてきたそうです。ただ、逆にいえば東電の経営陣には原子力の専門家は入れず、だからこそ自分の村をつくらざるをえない。そのかわり、対外的に関わりの深い官僚や政治家、学者たちを自分たちの村に引き込んで、その村を拡大してできたのが、いわゆる<原子力ムラ>というわけです。今は内部となっている領域も、もともとは外部だったので、同様に今は外部の領域も、次々に内部に繰り込まれてゆく可能性があります。<原子力ムラ>にとっての外部とはそういうものです。ならば逆に、その内部の中の内部は…と遡行してゆくと、それはまさしくムラの内奥深く厳かに隠された、原子力本部の聖なる神殿だったのです。

こうしてみてくると、<原子力ムラ>はいうなれば、原子力という共通の<神>、原子力推進という共通の<神話>のもとに、異なる利権に競り合う<神官>たちを垂直的に統合する、きわめて宗教的な共同体ということができます。そう、呪術を駆逐し宗教を否定してきたはずの科学技術は、今やその最先端に至って再び、擬似呪術的・擬似宗教的にこそ維持されるしかない地点に立ち至っていると言わねばなりません。最先端の宗教教団としての高度科学技術国家・・・その教団の司祭たる<原子力ムラ>の専門家エリートたち・・・。
原子力の推進にあたって、安全神話、平和利用神話、安価神話、無資源国神話、核燃料サイクル神話、クリーン神話、安定供給神話(原発止めると電気が足りないやら、いきなり原始時代に逆戻りするやらの事実無根の神話)、etc.etc.・・・と次々に新たな神話が生み落とされねばならなかったのも、このためではないでしょうか。
いやもっといえば、「原子力」という語自体がすでに1つの神話でした。同一の原語”atomic energy”を「核エネルギー」でなく「原子力」と訳し分けて、あたかも「核」兵器や「核」爆弾とは別種の世界であるかのような印象操作を、この訳語に忍び込ませながら、涼しい顔して微笑んできたわけですから。
まして「平和利用」となれば、本当はただ端的に「核の民事利用」と言い直すべきもので、「平和」とは全く無縁な単なる神話にすぎないことは、スリーマイル島事故・チェルノブイリ事故でもとっくに明らかになっていたことですが、3・11原発震災以降、もう誰の目にも疑いないことでしょう。

前回みたような、本当は正しくないかもしれない情報が「真実」となり、本当は正しいかもしれない情報が「デマ」となりかねない基本構造は、高度科学技術国家のこの擬似宗教性にこそあったというべきでしょう。

<つづく>


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3・11以後に向けて(7) 2011/06/22 13:41

2011-07-03 00:30:00 | 3・11と原発問題

残念ながらわがニッポンでは、こんな「理性」がいつも、さまざまな重要な事柄の、何が「正しい」情報なのかを決定してきました。それに外れると判断された情報は、たとえ(科学的に!)正しいものであっても、隠蔽され黙殺され、「デマ」として排除され抑圧される。
諸外国のメディアは、日本のマスコミよりずっと的を射た報道をしても、しばしば「行過ぎた過剰な報道」として、日本政府(外務省)から訂正を求められねばなりませんでした。もちろん「明らかな事実誤認」もあり、「原発事故で作業員が5人死亡」といった記事が次々と転電されるなどは、訂正されて当然ですが、他方では、オハイオ州のタブロイド紙の例のように、「ヒロシマ」「ナガサキ」「フクシマ」とキノコ雲が3つ並んだ漫画を掲載しただけで、在デトロイト日本総領事館から「事故と原爆を同一に扱うのは不適切」と抗議され、謝罪のうえ、ネット上に掲載された漫画も削除する、「過剰報道狩り」もみられました(朝日新聞4月8日付)。
それでいて、福島第1原発3号機がプルサーマル稼動でプルトニウムを所有するという基本的な事実さえ、海外では震災後1週間以内までに、欧米から中国・韓国に至る多くのメディアで伝えられる周知の事実だったのに、当のわがニッポン国内では、専門家や反対運動界隈以外ではほとんど知られておらず、3月29日に3号機敷地内の土壌からプルトニウム検出が明るみに出てはじめて、慌てて少し、その時だけ、報道されるのです。

ましてネット空間への当局の猜疑心は格別で、早くも震災当日にデマ取締りの方針を決定した警察庁は、3月17日には、各都道府県警に、ネット上のデマと判断した書き込みは事業者に削除を要請するよう指示、表現内容にまで警察が直接踏み込むという前代未聞の対応を見せました。折しもその日、ツイッターに宮城選出の参院議員(自民党)・熊谷大氏が、「ガソリン抜き取りや火事場泥棒が報告されている。こういう時だからこそ助けあおう」と書き込み、それを誰かがネットに転載した、こんなものまで「デマ」と判断されて、警視庁の要請で削除されてしまいました(朝日新聞5月2日付)。
一体これは正しくない情報なのでしょうか? ちなみに、3月30日の衆院法務委員会で警察庁生活安全局長は、「ガソリン抜き取りや侵入窃盗が相当数発生している」と答弁しています(同紙)。すると問題は何? ……「正しい」か「正しくない」かは当局が決める。また、「正しい」としても、それを「誰が」言ってもいいかも当局が決める。要はそういうことでしょうか。でもこれでは、事態は<災害ナショナリズム>どころか、もはや<災害ファシズム>(野田正彰・鎌田慧など)になってしまいます。それともそうやって、日本版ジャスミン革命が勃発するのを、ひそかに応援しているのでしょうか(笑)。4月6日には今度は総務省が、ネット上のデマの自主的な削除を各事業者に要請する通達を出したところをみると、どうやら本気なのかもしれません!

一方、本当は正しくないかもしれない情報も、できるだけ「正しい」ものであるかのように、できるだけ曖昧な表現を使って発表されます。たとえば、放射能問題をめぐって、政府が繰り返し表明してすっかり流行語(!)にまでなった、「ただちに健康に害のある値ではない」というあの文言。あれこそよっぽど、「国民の不安を煽る」デマに相当しないでしょうか。デマのおこりやすさは、事柄の曖昧さと重要さ(関心度)の積に比例し、断片的であるほど・抽象的であるほど・よそよそしい態度で語られるほど、デマの材料になりやすいというのは、もう何十年も前から社会心理学の「常識」(科学的真理!?)です(オールポート『デマの心理学』、清水幾太郎『流言蜚語』)。デマの取締りというなら、警察はまずこうした政府をこそ取り締まらなければなりません。
では取り締まって削除すれば落ち着くかというと、おそらく現実はそう単純でない。ネット上のデマも同じでしょうが、むしろますますデマを増殖させるだけでしょう。なぜなら、よほど政府に都合の悪い事実だから削除された(あるいは見当たらない)のだろうという推測を、猛烈に煽ることになるからです。
とすると、もはや残る選択肢は1つ。政府は、おのれの都合のフィルターを通さずに、事実をありのままに公開すべきです。公開して、公共の場で皆がさまざまの立場から、対等に、しっかりと討論すべきなんです。それが公的機関としての政府の第一の役割であり、責任であり、それこそが<公助>の第一歩でなければなりません。またそのとき、デマに対しても最も効果的な火消し役となるはずです。……と、こんな主張もそれ自体1つの「デマ」にすぎないというのであれば(論理的にはそうなりかねない)、むしろ政府はネット空間に目を向け、しかと観察し、虚心に見習いなさい。多くのガセ情報が飛び交うたびに、即座に検証し訂正してまわる「検証屋」(荻上チキ『検証 東日本大震災の流言・デマ』)の働きぶりが、政府より何歩も先を行く、よき理性を備えていることに気づくはずです。

こんなふうに、まず言論や情報メディアのレベルで見てきただけでも、“ニッポンはひとつ”“がんばろうニッポン”の<災害ナショナリズム>は、前に見たように<災害ユートピア>の方へたえず踏み越えられるにとどまらず、今度は<災害ファシズム>の方へもたえず踏み越えられてゆくポテンシャルに満ち満ちていることがわかります。しかもこれは、単に言論や情報メディアの問題だからではありません。あくまでそれは波頭の一滴。深海に蠢くもっとおどろおどろしいうねりこそが本命です。

<つづく>


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3・11以後に向けて(6) 2011/06/20 19:04

2011-07-03 00:29:00 | 3・11と原発問題

そこで第2に、“ニッポンはひとつ”“がんばろうニッポン”の連呼と、原発事故の危機的事態~「計画」停電の時期的符合に話を移しましょう。
震災直後かなり早い段階から、多くの人々によって、“地震・津波は天災でも、原発は人災”と口々に語られてきました。“天災”に加えて、その“人災”が、日に日に最悪の様相を呈しつつあったのがこの時期でした。しかも当時発表されていたよりも、事態はずっと悪いものだった。そして驚くべきことに、ていうか恐るべきことに、多くの人々が、合理的にも非合理的にも、そのことを当時とっくに察知してしまっていたのです。察知はしているものの、ただ、その確実な証拠を誰もつかむことができない。この宙吊りの不安! その不安があの頃は至る所に蠢いて、本当に大変でしたね。自然堂の界隈でも、疎開・転居・海外移住…などなどをめぐって、軋轢・葛藤・論争その他さまざまな波紋がありました。その濁流の中で心身の調子を崩し、今なお復活しきれずにいる方もあります。でもいっそう恐るべきことは、その宙吊り構造は今も何ら基本的に変わっておらず、かえってますます見えにくくなって潜行していることではないでしょうか。
なぜ誰も確たる証拠をつかめないのか。いうまでもなく情報が隠され、あるいは操作されているからです。当時(も今も)、東電・政府~マスコミ等から伝えられた情報は、過大にも(チェルノブイリ型の爆発の可能性など)・過小にも(原子炉内外の状況や放射線量等のデータなど)信頼性に欠けるものばかり。これら両極端の煙幕に巧みに守られながら、実際にはすでにこのとき福島第1原発の3機ともがメルトダウンしていたことが、震災から2ヶ月も経ってから、しぶしぶ「認定」される体たらくです。はじめから知っていて、隠していたのだろう? といわれても無理のない話です。

ではなぜ、正しい情報さえもがきちんと一般に公開されないのか。「国民の不安を煽るようなことになってはいけないから」というのが、ほとんどお決まりの答えです。まるでデマへの対応みたいじゃないですか。正しい情報もデマ情報も扱いが変わらない。そう、いま僕らは、どんなに科学が進歩しようが(あるいはそれゆえに?)、真の情報もニセの情報も機能的には区別を失ない、同じものとして流通する世界の中に引き入れられています。内容が正しかろうがデマであろうが、その情報が「国民の不安を煽る」(と想定される)かどうか、社会秩序を乱す(と想定される)かどうかだけが重要であり、そうしたパニックを引き起こさない(と想定される)情報こそが、今や唯一「正しい」情報というわけです。
なんと国民思いの指導者たちでしょう! “大本営発表”だと揶揄する声も盛んでしたが、たぶん根はもっと深くて、そこに流れるのは、もともと『論語』に由来し、江戸幕府で大幅に採用され、明治天皇制でかえって増幅され、戦時体制をへて戦後システムにも継承され、日本的ネオリベを補完する新保守主義にまで一貫した、あの“由らしむべし、知らしむべからず“の儒教的パターナリズムではないでしょうか。何が「正しい」ことか、何が「正しくない」ことか、何が知るべきことか、何が知らなくてよいことか、1人1人が判断するのではなく、”お上“が決めてくれるんです。見るも麗しい<公助>です。そうと決まったら、あとはそれに従って、“ニッポンはひとつ”“がんばろうニッポン”で行くのが一番「正しい」んです。すると俄然みんな元気になります。何のために団結してるのか忘れるぐらいに元気になります。まるでこれこそが<共助>のような気さえしてきます。あの時期にこのスローガンが出てきたのも当然だったのでしょう。

ただ、どうしても1つ気がかりが消えません。僕ら「国民」は、本当のことを知らされると、本当にそんなに不安に陥って、パニックしてしまうものなのでしょうか。むしろ中途半端にしか知らされない方が、宙吊りの不安でパニックも起こしやすくなるのではないでしょうか。さらにはむしろ、知らせまいとしている側の方が、勝手な想像を逞しくして、よっぽどパニックしていることはないでしょうか。
ここで、アメリカの災害社会学でいう「エリートパニック」のことを思い出します。それによると、災害の際には“普通の人々“がパニックになるのではなくて、むしろエリートの方が、社会秩序の混乱(と想定されるもの)を自分たちの正統性に対する挑戦として恐れ、パニックに駆られて、いっそう権力的な行動に出てしまうのです(再び関東大震災の官憲テロを思い出します)。つまり、普通の人々がパニックを起こすのではないか、と想像してエリートがパニックを起こし、そのエリートのパニック行動によって、普通の人々もパニックを起こしかねないというのが、むしろ実態に近い。ただ恐らく、エリートのパニックの方が、(権力をもつ分だけ)より「理性的」な相貌をまとうので、パニックとして見分けがたいということはあるでしょう。

たとえば最近でも、6月11日の脱原発全国行動のデモを、石原伸晃・自民党幹事長が、「あれだけ大きな事故があったので、集団ヒステリー状態になるのは心情としては分かる」とか言って、自分は理性的なつもりになっていますよね(読売新聞ほか6月15日付)。では石原氏にお伺いします。石原氏もその中心にいた、菅内閣不信任案をめぐる一連の騒動は、あれは政界の与野党挙げての一大集団ヒステリーではなかったのかと(ちなみに僕は、断るまでもなく、菅氏の支持者ではありません)。
まあ仮に、脱原発デモが集団ヒステリーだったとしても、それでも政界の集団ヒステリーに比べたら、脱原発デモの方が、“原発は恐い”“恐いものは恐いと言っていいんだ”と、自らのホンネを衒いなく表明していた点で、一見「ヒステリック」なようでいて、実はずっと理性的だったように思います。それに比べて政界の集団ヒステリーは、何がホンネなのか、ついぞ表明しえない。隠すことしかできない。隠しているのを自分でちゃんとわかってるのかすら怪しい。だから一見「理性的」なようでいて、その分ずっとヒステリックでした。さまざまな政治的利害の思惑の、さらにその根底のところで、本当のところ何を恐れていたのでしょうか。恐いものは恐いと、みんなの前で言っていいのですよ。どうぞ言ってください。

<つづく>

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