映画日記(ためし)

映画の印象を、悪い、ふつう、よい、の三段階で表現したいと思います。
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『マクナイーマ』

2015年04月25日 | Weblog
ふつう

ジョアキン・ペドロ・デ・アンドラーデ 監督・脚本
グランヂ・オテロ、パウロ・ジョゼ、ヂナ・スファッチ、ミウトン・ゴンサウヴェス 出演

アマゾンの密林で老婆の股間から産まれ落ちた赤子。その容姿は、なんと黒人の中年男。不吉を意味する“マクナイーマ”と名付けられた彼は、ある日、魔法の泉で水を浴びるや、美しい白人の青年に変身。そして、兄弟と共にアマゾンを飛び出し、大都会リオデジャネイロへと向かうマクナイーマだったが……。
ストーリーはallcinemaより
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=338106





ストーリーを引用させてもらったallcinemaの説明によると、
1960年代、フランスの“ヌーベル・ヴァーグ”に呼応してブラジルで起こった映画の新たな潮流“シネマ・ノーヴォ”。その牽引役の一人ジョアキン・ペドロ・デ・アンドラーデ監督が69年に手掛け、近年、カルト映画として世界的に再び注目を集めているサイケデリック不条理劇。2010年12月、デジタルリマスター版にて本邦初劇場公開が実現。

だそうである。
こういう映画史的な説明がないと、少々観るのがつらい。

縁起のいい石を取り戻しても、たいして縁起がよさそうには見えなかった。

低予算で湿地のところはなくてもよさそうなのに、終わりでもどってきた。

『ぼくを探しに』

2015年04月25日 | Weblog
よい

シルヴァン・ショメ 監督・脚本・音楽
ギョーム・グイ、アンヌ・ル・ニ、ベルナデット・ラフォン、エレーヌ・ヴァンサン、ルイス・レゴ、ファニー・トゥーロン、ケア・カン 出演

幼い頃に両親を亡くし、その時のショックから言葉を話せないまま大人になったポール。彼はダンス教室を営む風変わりな伯母姉妹アニー&アンナに育てられた。姉妹はポールを世界一のピアニストにしようと必死で、ポールはそんな姉妹のもとでダンス教室を手伝い、ピアノの練習に明け暮れる静かな日々を送っていた。そんなある日、彼は同じアパルトマンに住む謎めいた女性マダム・プルーストと出会う。彼女が勧める不思議なハーブティーを飲んだポールは、赤ん坊の頃の幸せな記憶を呼び覚ます。以来、マダム・プルーストのハーブティーを飲んでは、封印されていた過去の記憶を取り戻すことに夢中になっていくポールだったが……。
ストーリーはallcinemaより
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=349329






両親がいなくて無口な主人公が旅(本作では精神的な旅だが)をする……、という基本構造は、本作と『ベルヴィル・ランデブー』と『イリュージョニスト』で共通する要素である。『パリ、ジュテーム』も観ているが、どれがシルヴァン・ショメの監督作品か覚えていない。

そして、共通する要素がこれだけあるにもかかわらず、それぞれの印象がまったく違うというのがすばらしい。立派なバリエーションである。

悲劇と喜劇の共存と、映像と音楽にこだわっている監督だ。

クスリにたよらず、誰か口で教えてやってもよさそうだったが……。

『ジゴロ・イン・ニューヨーク』

2015年04月25日 | Weblog
よい

ジョン・タートゥーロ 監督・脚本
ジョン・タートゥーロ、ウディ・アレン、ヴァネッサ・パラディ、リーヴ・シュレイバー、シャロン・ストーン、ソフィア・ベルガラ、ボブ・バラバン 出演

ニューヨークのブルックリンで、3代続いた本屋を自分の代で潰してしまったマレー。失業で途方に暮れていた彼はふとしたきっかけから、花屋でバイトする友人のフィオラヴァンテをジゴロに仕立てると、2人で愛に飢えた女性相手のいかがわしいビジネスに乗り出す。すると意外にもフィオラヴァンテの優しいジゴロぶりが評判となり、マレーの巧みな営業活動と相まって商売は思いのほか大繁盛。調子に乗ったマレーは、新規顧客としてユダヤ教の中でも厳格な宗派に属しているラビの未亡人アヴィガルを言葉巧みに勧誘する。しかしフィオラヴァンテとアヴィガルは互いに惹かれ合い、秘密の逢瀬を重ねるようになってしまう。それは、ジゴロにとってもユダヤ教徒にとっても決して許されることのない禁断の恋だったのだが……。
ストーリーはallcinemaより
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=349082#1





身の引き方が大人というか、真のジゴロである。
そして、日本人にわかりにくいのがユダヤ教の戒律と生活習慣だ。

終盤があっさりしていると感じるかもしれない。

ウディ・アレンは自分で監督しなくても、従来通りのウディ・アレンであった。