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如來の演ぶる所の經典は 【如来寿量品第十六】

2014年11月15日 18時10分53秒 | まちづくり


 
★★ きょうの謎!
 
その謎1:経典の教え方としては、如来自身のことだけでなく他の者や事柄も示して
     いるという意味はこの経典は如来の教えだけではないということでしょう
     か?
 
その謎2:「實に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くな
     らず」とある四つの非ずとは「罪」という字に関係があるでしょうか?
 
 
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■■第7-16日号
 
 如來の演ぶる所の經典は
 
  【如来寿量品第十六】
  (三十四行~四十行)
 
■■今日の一偈一句
 
 モロモロ ゼンナンシ ニョライ ノ  トコロ キョウデン ミナシュジョウドダツ   タメ  アルイ コシン
 諸 の善男子、如來の演ぶる所の經典は、皆衆生を度脱せんが爲なり。或は己身を
 
 ト  アルイ タシン  ト  アルイ コシン シメ  アルイ タシン シメ  アルイ コジ シメ  アルイ
 説き、或は他身を説き、或は己身を示し、或は他身を示し、或は己事を示し、或は
 
 タジ シメ  モロモロ ゴンセツ  トコロ ミナジツ  ムナ     ユ エ イカ  ニョライ ニョジツ
 他事を示す。諸 の言説する所は皆實にして虚しからず。所以は何ん、如來は如實
 
   ガイ ソウ チケン  ショウジ モ  タイ モ  シュツ       マタザイセオヨ メツド
 に三界の相を知見す。生死の若しは退、若しは出あることなく、亦在世及び滅度の
 
 モノ   ジツ アラ  コ アラ  ニョ アラ  イ アラ    ガイ ガイ ミ  ゴト
 者なし。實に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くなら
 
   カク ゴト  ジニョライアキラ  ミ シャクミョウ
 ず。斯の如きの事、如來明かに見て錯謬あることなし。
 
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  1. 今 日 の 解 読 !  (苦)
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諸々の善男子よ、如來の演説する所の經典は、すべて衆生を度脱(どだつ:悟りに導
 
く)させるがためである。或時は己の立場を説き、或時は他の立場を説き、或時は己
 
の立場を示し、或時は他の立場を示し、また或時は己の事を示し、或時は他の事を示
 
す。これら諸々の言説する所はすべて真実であり虚であってはならない。なぜかとい
 
えば、如來は如實(にょじつ:ありのまま)に三界の相を知見できるからである。生
 
死のどちらが退くなのか、どちらが出るなのかは区分あることなく、また在世する及
 
び滅度する者の区分はなし。實に非ず、虚に非ず、如(にょ:何かの様・似ている 
 
様・ごとし)に非ず、異に非ず、三界の者が三界を見るが如くではない。このような
 
事を、如來は明かに見て錯謬(しゃくみょう:まちがえること・あやまち)あること
 
はない。
 
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  2. 今 日 の 説 法 !  (集)
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今日の経文の始めに書かれている、「如来の演ぶる所の経典」というのはとても重要
な意味があります。
これは、如来が自身のやり方で説法を宣説することとは異なり、この法華経の経典を
演説するということにあるのです。
 
演説するとは聞き手に上手くわかりやすく演出を用いて解説するということですね。
ですから、如来がただワンマンにして一方的に命じたり主張する宣説とは違うという
ことです。
 
つまり、最高に完成された高度な教科書である法華経を学習の第一に沿え、その法華
経を習得させたいために如来が教師となって代理で教えているということです。
そして、その法華経をなぜ教えるかといえば、すべての衆生を度脱、つまり悟りへ導
きたいからということであり、法華経を知ることが悟りへの道なのでしょう。
 
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その法華経の教え方としては、如来自身の立場を説明することもあれば、他の立場を
説明することもあるし、また如来自身がその姿を現すこともあれば、他の姿を現すこ
ともあるし、あるいは如来自身の出来事を現すこともあれば、如来以外の出来事を現
すこともあるということです。
 
そして、如来が諸々の言葉で説明するところはすべて真実であり虚ではない。その理
由は、如来はあるがままにそのままこの三界の本質を見抜くことが出来るからです。
この三界において生きる死ぬという概念にそのどちらが退きか、それとも出て行くの
かの区分は無く、またこの世に残る者と滅度する者との違いも無いのです。
 
これらの説明は、真実では有り得ず、虚でも有り得ず、何かの様でも有り得ず、異な
っているものでも有り得ない、三界の者がそのまま三界を見る実感とは違うのです。
このような事は、如来が明瞭に観察していてまちがいはないのです。
 
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  3. 今 日 の 謎 !   (滅)
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その謎1:経典の教え方としては、如来自身のことだけでなく他の者や事柄も示して
     いるという意味はこの経典は如来の教えだけではないということでしょう
     か?
 
その謎2:「實に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くな
     らず」とある四つの非ずとは「罪」という字に関係があるでしょうか?
 
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  4. 今 日 の 知 識 !  (道)
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前回、この品で私は、釈迦の決断した自らの身をもって佛道修行を極めて見せる手段
は素晴らしい実践力であって、生きた教科書のようにその手っ取り早く分かり易い男
らしさや地道な根性が釈迦の大きな特徴であるように伝えました。
 
しかし、釈迦の判断したこの如来手段とは、結局は過去どの如来も皆同じ事をしてき
たようであり、如来そのもののあるべき決まりごとのように思えてきました。
つまり、釈迦が如来として衆生に実際に佛道修行の難しさなどを身を持って示して教
えてきたこと自体は、そのまま如来そのもののいつもの実態ということのようです。
 
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ですから、釈迦こそこの法華経をどの如来よりも詳細正確にコピーして忠実に、ある
べき如来そのままに演じてきたのではないかとも思います。
そして、おそらくどの歴代の如来も到達できなかった法華経のすべての真実を悟るこ
とが出来たのが釈迦だったのではないでしょうか。
 
よって、釈迦ももともとから法華経を完全に理解した後にこの世へ如来として出現し
たのではなく、きっと、いつの時代の如来も手っ取り早くこの世の衆生を救う目的だ
けを目指してとりあえず出現し、その後に修行を積んで最終的に法華経と巡り会って
いくというシナリオであるのでしょう。
 
ですから、釈迦はどの如来も最初の目的は皆同じだったといっていると思うのです。
 
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  5. 今 日 の 解 脱 !  (悟)
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この私たちの住む三界こそ法華経の通りにはなっていない世界なのだと思います。
ですから、如来はこの三界に出現し、その有り様のありのままを観察するという慣わ
しなのでしょう。
いつもの如来のその観察の結果、この三界の実質は、生と死の界いが無く、生きてい
る死んでいるどちらの者でもないということなのでしょう。
 
そして、「實に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くなら
ず」とありますが、これは一体何を言おうとしているのか?まるで意味がわかりませ
んが、たとえばこの四つの非ずについてですが、これは「罪」という漢字につながり
が無いものかと考えてみました。
 
そのように四つの非ずを罪として考えて見ますと、これが法華経の通りでない私たち
三界の罪ということになるのかもしれず、この三界の罪のために如来が出現してくる
と考えることができ、そして、如来とは法華経という法律書を片手にこの三界を裁く
裁判官を役割るためにやって来るのではないかと考えられるのではないでしょうか?
 
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そして、「三界の三界を見るが如くならず」とありますが、この私たちの三界には罪
ある者を処罰する裁判所が設置されていますね。
そして、それはすべて私たち衆生のつくったこの世の法律で運営されているのです。
しかし、その法律は法華経ではないわけですから、三界の者がこの三界を観察する如
くではないというのが如来の知見であり、それが法華経だけの真実なのでしょう。
 
ところで、罪とは犯すことで初めて犯罪となるわけですよね。
ですから犯していない罪が如来の知見するこの三界の四つの非ずの事にも思えるので
す。
つまり、この三界の状況は確かな罪な状態である、しかしそれを勝手に犯して非ずこ
とを有るなどとしてはならないし、三界の者が三界を裁いたり、どのようにするとい
うことではないと釈迦は言っているのではないでしょうか?
 
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  6. 今 日 の 振 り 返 り !(脱)
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今日の私の四非の考えはいかがだったでしょうか?
真実では有り得ないことを真実と言ったり、嘘でもないことを嘘であると認めたりす
ることは確かに犯罪ですよね。
 
言った言わない、認めた認めない、などの口論をその都度にどちらが良いか悪いかを
決定しようにも、そのどちらかが確かに法華経に合致しているかが大事な結果なので
すね。
ですから、そのどちらでもないと保留する状態こそ、如来の知見に任せている状態と
言えるでしょう。
 
私たちが通常する判断はそのようにどちらのケースも同時に保留して同時に考えるこ
とが精神状態を円滑にしている、もっとも頭脳や身体のバランスを保ちやすい、良好
に活性化された状態といえます。
 
ですから、自分勝手にどちらか一つの決断に邁進するよりは、別々のケースや考えを
同時平等に運用する心身のあり方を日常と心がけることが、いずれ一つの判断が自然
に現れてくることになるのです。
 
ですから、学問であるなら、たとえば小学生五教科目を平均バランスよく平等に学ぶ
ような方法が、もっとも心身ともに生長する喜びを得ることが出来るでしょう!
 
今回もお読みいただき、誠にありがとうございました。
末永くご愛読いただけますよう、今後とも何とぞよろしくお願いいたします。
 
  (ぶっけん)
 

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