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遙か遠い沖合の海は、青菫の花を一面に敷き詰めたように深い青色をしていました。風のない穏やかに晴れた日などには、透き通った藍晶石の板がはるか向こうまで続いているようにも見えました。星月のない闇夜などには黒々とした墨のようにも見えましたが、本当は、海の水は、まるで神様の眼差しのように、澄んで透きとおっているのです。
水面の帳を、カーテンをくぐるようにして、海の中に入って行くと、そこにはそれはたくさんの魚が生きていました。深いところの海底には、いろいろな珊瑚や海藻も生きていて、深い森を作っていました。海の底から見るお日さまは、薄紫色の花のようでした。その柔らかな光は海の底に透き通った菫の花びらを静かに落としていくように、海の底を照らしていました。時々、クジラや、人間の船が、大きな黒い影を、海底に落として過ぎていきました。
人魚たちの住む、海の国は、そんな沖合の、深い海の底にあるのです。海の国の人魚たちは、みな健康で、幸せそうで、真珠のような明るい目をしていました。海の底の清い水が、人魚たちの心をいつもきれいに洗っていたからです。
もちろん、海の国には、立派な王様がいらっしゃり、大きな海の御殿に住んでいました。御殿は美しいサンゴや貝がらや海の石でできていて、たくさんの広間や中庭がありましたが、屋根はありませんでした。なぜというに、海の中では雨を防ぐ必要などなかったからです。ですから、広間と広間をつなぐ扉などはなく、隣の部屋に行きたいと思ったら、壁の上を泳いで越えていけばいいだけなのでした。
広間の壁には、深海の真珠の明りを貝殻の上に乗せて、たくさん燭台にしてとりつけてありました。深海の真珠は月のような光をゆらゆらと燃やして、昼も夜も、海の国の御殿のあちこちを照らしてくれました。
さて、海の国の王様には、六人の美しい姫様がいました。ですが、お母様でいらっしゃるお妃様は、ずいぶんと前にお亡くなりになり、姫様たちを今育てているのは、王様のお母様でいらっしゃる、おばあ様でした。おばあ様は、それは美しく端整なお姿をなさった人魚で、腰から下の魚の尾の部分には、身分の高い者のしるしとして、カキの貝殻を細工して作った美しい鈴をつけていました。ですからおばあ様が泳ぐたびに、貝の鈴がからからと鳴って、その音を聞いたものはあわてて礼儀をただし、深く頭を下げて、おばあ様に感謝の気持ちを表すのです。なぜなら、このおばあ様はとても深い知恵をお持ちの方でいらして、人魚の国をよい国にするために、それはよいことをたくさん、みんなのためにやってくれるからです。
おばあ様は、六人の姫様を心より愛して、その教育を、それは熱心におやりになりました。おばあ様は、御殿の中の一番大きな中庭に、人魚の姫様たちを集められ、不思議な昔話や、大昔に立派なことをされて国の人を助けた偉い人魚の伝説や、人魚としてやってはいけないことと、やらなければいけないことなどを、細やかに教えてやりました。姫様たちは、おばあ様をとても尊敬していて、一生懸命に勉強しました。そして大きくなっていくほどに、姫様たちは賢く、美しく成長していったのです。
中でも、一番末の姫様は、それはかわいらしく、青い真珠のような瞳と、緑がかった長い金の髪をしていて、鈴のような美しい声をしていました。それは陸の上の世界に飛んでいるという、さよなきどりよりももっと美しい声でした。その美しい声で美しい歌を歌うと、近くにいた人魚はふと自分の仕事の手を止めて、心の澄むようなその歌をしばし我を忘れて聞き入っていました。
そして海の国の人魚たちは、美しい姫様たちが、心も体も健やかに育っていくのを感じて、心から嬉しいと思うのでした。
海の国の人魚たちにも、いろいろな仕事をして暮らしていました。その仕事の中でも一番大事なのは、海の底を浄めるということでした。なぜなら、海の底には、いろいろなものが落ちて来るからです。人間が捨てたがらくたやごみや、時々船がまるごと沈んでくることがありました。人間の体と言うのは、死ぬとだんだん腐ってきて、とてもひどいものになるものですから、人魚たちは海底で死んだ人間たちに、海の砂をかぶせて清めてあげました。
時には、海の上で人間が戦争をする時もあり、そんなときは次々と人間の体や船などがたくさん落ちて来て、人魚たちは海の底を浄めるために大変な思いをせねばならないことがありました。そういうときは、人魚たちは多少の皮肉を込めて、言うのでした。
「しかたないね。人間と、人魚では、作りが違うからね」
「神さまは、人間をお創りになったときと、人魚をお創りになったときは、違うことをなさったそうだよ」
このようにして、人魚たちは毎日を一生懸命に働いて、海の国を良い国にしようとがんばっているのでした。
さて、ある日のことです。おばあ様は、六人の姫様たちを連れて、遠足をしました。姫様たちに、人間と言うもののことを、教えてあげようと思ったのです。もちろん姫様たちは、海の上には陸というものがあって、そこには人間というものがたくさんいるということは、知っていました。でも今日は、おばあ様がとても大事なことを教えて下さるというので、それはいったいどんな秘密なのだろうと、胸をわくわくさせながら、姫様たちは貝の鈴を鳴らして泳いでいくおばあ様の後についていったのです。
海の国の大通りを通っていくと、柳のような海藻や、サンゴで作った家などがたくさん並んでいて、海の国の町はたいそうにぎやかでした。色とりどりの魚たちが小鳥のようにあちこちで泳いでいました。時々、深海の烏賊が真珠色に光りながらゆったりと泳いでいたり、青い海ガメが、通り過ぎていく姫様たちをふとふり向いたりしました。海ガメというのは、いつもものがなしそうな顔をしています。それは、カメがとても知恵の深い生き物で、人間も人魚も知らないような大切なことを知っているからだと、姫様たちはおばあ様に習って知っていました。でも何をカメが知っているのかは、誰も知らないそうでした。
さて、おばあ様は、姫様たちをある古い難破船のところに連れて行きました。それはとても古い時代の難破船で、船といっしょに沈んだ人間の骨はもう塵になっていて、船もほとんど船の形をしておらず、さび付いた何かの金具のようなものがあちこちに落ちていて、それが辛うじて昔の船の形を残していました。ただ、船の一番端のあたりに、人魚たちが作ったらしいサンゴの小屋があり、おばあ様はその中に、姫様たちを連れていったのです。
壁の上を越えて中に入っていくと、そこは思ったよりも深く広い部屋で、おばあ様たちが入って来ると、壁につけられた真珠の灯りがあわててぴかりと光りました。そしてその光が照らしだしたものを見て、姫様たちはびっくりしました。
「これが、人間の姿というものだよ」
おばあ様が指差しながら言いました。そこには、古い時代に作られたらしい、大理石の彫刻があったのです。立派な姿をした美しい少年の像で、だれかが手入れをしているらしく、頑固なフジツボや貝などは一切ついておらず、ゴミで汚れてもいませんでした。
姫様たちは、その少年の姿を見て、びっくりしました。人間と言うものは、腰から上は人魚とほとんど同じですが、腰から下は、魚の尾のようなものではなく、二つに割れていて、それぞれがとても美しい形をしていたのです。末の姫様が、びっくりして言いました。
「これはなんですの? おばあ様。なんで人魚のように、魚の尾がないの?」
するとおばあ様はこたえました。
「これは足というものだよ。人魚は魚の尾を振って、海の中を泳いでいるものだが、人間と言うものは、この二本の足を交互に動かして、陸の上を歩いているのだよ」
末の姫様は、すいと前に出て、少年の像に顔を近づけました。近くから見ると、その少年はまことに美しく、見たこともないような不思議な服を着ていて、素直な瞳は真っ直ぐに前を見ていて、かすかに笑っていました。その表情を見て、末の姫様は、胸に痛みのようなものが走るのを感じました。青い真珠のような瞳が、少年の賢そうな額や瞳に吸いつけられて、姫様はしばらくぼんやりと見とれていました。
「人間はみんな、こんなに美しいものなの?」
姫様が言うと、おばあ様がまた言いました。
「いいや、この像は特別なのだよ。海にはいろんなものが落ちてくるが、これはその中でもとても美しかったので、代々の人魚が大事にしてきたのだよ。人間というものを教えるのにも、とても便利ないいものだからね。さあ部屋を出てこちらにおいで。大切なことを教えてあげよう」
おばあさまは、姫様たちを部屋の外にいざないました。末の姫様は、少し名残惜しそうに、大理石の像から離れ、おばあ様たちについて部屋を出て行きました。
(つづく)
遙か遠い沖合の海は、青菫の花を一面に敷き詰めたように深い青色をしていました。風のない穏やかに晴れた日などには、透き通った藍晶石の板がはるか向こうまで続いているようにも見えました。星月のない闇夜などには黒々とした墨のようにも見えましたが、本当は、海の水は、まるで神様の眼差しのように、澄んで透きとおっているのです。
水面の帳を、カーテンをくぐるようにして、海の中に入って行くと、そこにはそれはたくさんの魚が生きていました。深いところの海底には、いろいろな珊瑚や海藻も生きていて、深い森を作っていました。海の底から見るお日さまは、薄紫色の花のようでした。その柔らかな光は海の底に透き通った菫の花びらを静かに落としていくように、海の底を照らしていました。時々、クジラや、人間の船が、大きな黒い影を、海底に落として過ぎていきました。
人魚たちの住む、海の国は、そんな沖合の、深い海の底にあるのです。海の国の人魚たちは、みな健康で、幸せそうで、真珠のような明るい目をしていました。海の底の清い水が、人魚たちの心をいつもきれいに洗っていたからです。
もちろん、海の国には、立派な王様がいらっしゃり、大きな海の御殿に住んでいました。御殿は美しいサンゴや貝がらや海の石でできていて、たくさんの広間や中庭がありましたが、屋根はありませんでした。なぜというに、海の中では雨を防ぐ必要などなかったからです。ですから、広間と広間をつなぐ扉などはなく、隣の部屋に行きたいと思ったら、壁の上を泳いで越えていけばいいだけなのでした。
広間の壁には、深海の真珠の明りを貝殻の上に乗せて、たくさん燭台にしてとりつけてありました。深海の真珠は月のような光をゆらゆらと燃やして、昼も夜も、海の国の御殿のあちこちを照らしてくれました。
さて、海の国の王様には、六人の美しい姫様がいました。ですが、お母様でいらっしゃるお妃様は、ずいぶんと前にお亡くなりになり、姫様たちを今育てているのは、王様のお母様でいらっしゃる、おばあ様でした。おばあ様は、それは美しく端整なお姿をなさった人魚で、腰から下の魚の尾の部分には、身分の高い者のしるしとして、カキの貝殻を細工して作った美しい鈴をつけていました。ですからおばあ様が泳ぐたびに、貝の鈴がからからと鳴って、その音を聞いたものはあわてて礼儀をただし、深く頭を下げて、おばあ様に感謝の気持ちを表すのです。なぜなら、このおばあ様はとても深い知恵をお持ちの方でいらして、人魚の国をよい国にするために、それはよいことをたくさん、みんなのためにやってくれるからです。
おばあ様は、六人の姫様を心より愛して、その教育を、それは熱心におやりになりました。おばあ様は、御殿の中の一番大きな中庭に、人魚の姫様たちを集められ、不思議な昔話や、大昔に立派なことをされて国の人を助けた偉い人魚の伝説や、人魚としてやってはいけないことと、やらなければいけないことなどを、細やかに教えてやりました。姫様たちは、おばあ様をとても尊敬していて、一生懸命に勉強しました。そして大きくなっていくほどに、姫様たちは賢く、美しく成長していったのです。
中でも、一番末の姫様は、それはかわいらしく、青い真珠のような瞳と、緑がかった長い金の髪をしていて、鈴のような美しい声をしていました。それは陸の上の世界に飛んでいるという、さよなきどりよりももっと美しい声でした。その美しい声で美しい歌を歌うと、近くにいた人魚はふと自分の仕事の手を止めて、心の澄むようなその歌をしばし我を忘れて聞き入っていました。
そして海の国の人魚たちは、美しい姫様たちが、心も体も健やかに育っていくのを感じて、心から嬉しいと思うのでした。
海の国の人魚たちにも、いろいろな仕事をして暮らしていました。その仕事の中でも一番大事なのは、海の底を浄めるということでした。なぜなら、海の底には、いろいろなものが落ちて来るからです。人間が捨てたがらくたやごみや、時々船がまるごと沈んでくることがありました。人間の体と言うのは、死ぬとだんだん腐ってきて、とてもひどいものになるものですから、人魚たちは海底で死んだ人間たちに、海の砂をかぶせて清めてあげました。
時には、海の上で人間が戦争をする時もあり、そんなときは次々と人間の体や船などがたくさん落ちて来て、人魚たちは海の底を浄めるために大変な思いをせねばならないことがありました。そういうときは、人魚たちは多少の皮肉を込めて、言うのでした。
「しかたないね。人間と、人魚では、作りが違うからね」
「神さまは、人間をお創りになったときと、人魚をお創りになったときは、違うことをなさったそうだよ」
このようにして、人魚たちは毎日を一生懸命に働いて、海の国を良い国にしようとがんばっているのでした。
さて、ある日のことです。おばあ様は、六人の姫様たちを連れて、遠足をしました。姫様たちに、人間と言うもののことを、教えてあげようと思ったのです。もちろん姫様たちは、海の上には陸というものがあって、そこには人間というものがたくさんいるということは、知っていました。でも今日は、おばあ様がとても大事なことを教えて下さるというので、それはいったいどんな秘密なのだろうと、胸をわくわくさせながら、姫様たちは貝の鈴を鳴らして泳いでいくおばあ様の後についていったのです。
海の国の大通りを通っていくと、柳のような海藻や、サンゴで作った家などがたくさん並んでいて、海の国の町はたいそうにぎやかでした。色とりどりの魚たちが小鳥のようにあちこちで泳いでいました。時々、深海の烏賊が真珠色に光りながらゆったりと泳いでいたり、青い海ガメが、通り過ぎていく姫様たちをふとふり向いたりしました。海ガメというのは、いつもものがなしそうな顔をしています。それは、カメがとても知恵の深い生き物で、人間も人魚も知らないような大切なことを知っているからだと、姫様たちはおばあ様に習って知っていました。でも何をカメが知っているのかは、誰も知らないそうでした。
さて、おばあ様は、姫様たちをある古い難破船のところに連れて行きました。それはとても古い時代の難破船で、船といっしょに沈んだ人間の骨はもう塵になっていて、船もほとんど船の形をしておらず、さび付いた何かの金具のようなものがあちこちに落ちていて、それが辛うじて昔の船の形を残していました。ただ、船の一番端のあたりに、人魚たちが作ったらしいサンゴの小屋があり、おばあ様はその中に、姫様たちを連れていったのです。
壁の上を越えて中に入っていくと、そこは思ったよりも深く広い部屋で、おばあ様たちが入って来ると、壁につけられた真珠の灯りがあわててぴかりと光りました。そしてその光が照らしだしたものを見て、姫様たちはびっくりしました。
「これが、人間の姿というものだよ」
おばあ様が指差しながら言いました。そこには、古い時代に作られたらしい、大理石の彫刻があったのです。立派な姿をした美しい少年の像で、だれかが手入れをしているらしく、頑固なフジツボや貝などは一切ついておらず、ゴミで汚れてもいませんでした。
姫様たちは、その少年の姿を見て、びっくりしました。人間と言うものは、腰から上は人魚とほとんど同じですが、腰から下は、魚の尾のようなものではなく、二つに割れていて、それぞれがとても美しい形をしていたのです。末の姫様が、びっくりして言いました。
「これはなんですの? おばあ様。なんで人魚のように、魚の尾がないの?」
するとおばあ様はこたえました。
「これは足というものだよ。人魚は魚の尾を振って、海の中を泳いでいるものだが、人間と言うものは、この二本の足を交互に動かして、陸の上を歩いているのだよ」
末の姫様は、すいと前に出て、少年の像に顔を近づけました。近くから見ると、その少年はまことに美しく、見たこともないような不思議な服を着ていて、素直な瞳は真っ直ぐに前を見ていて、かすかに笑っていました。その表情を見て、末の姫様は、胸に痛みのようなものが走るのを感じました。青い真珠のような瞳が、少年の賢そうな額や瞳に吸いつけられて、姫様はしばらくぼんやりと見とれていました。
「人間はみんな、こんなに美しいものなの?」
姫様が言うと、おばあ様がまた言いました。
「いいや、この像は特別なのだよ。海にはいろんなものが落ちてくるが、これはその中でもとても美しかったので、代々の人魚が大事にしてきたのだよ。人間というものを教えるのにも、とても便利ないいものだからね。さあ部屋を出てこちらにおいで。大切なことを教えてあげよう」
おばあさまは、姫様たちを部屋の外にいざないました。末の姫様は、少し名残惜しそうに、大理石の像から離れ、おばあ様たちについて部屋を出て行きました。
(つづく)