世界はキラキラおもちゃ箱・第3館

スピカが主な管理人です。時々留守にしているときは、ほかのものが管理します。コメントは月の裏側をご利用ください。

人魚姫のお話・3

2015-06-23 05:02:16 | 夢幻詩語

「どういうお方なのかしら。りっぱな服を着ていらしたから、きっと身分の高い方なのね。人間て、みんな、あんなに強い目をしているのかしら。人魚と人間の心が違うのって、わかるような気がするわ。あの目と比べたら、人魚の目は、まるでやわらかな真珠のよう」
 もっと人間のことが知りたい。そう思った末の姫様は、迷ったあげく、もう一度人間の国に行ってみようと、決意しました。
 一度決意すると、一秒も待っていられなかったので、末の姫様はすぐに部屋を出て、海面を目指して泳ぎ始めました。まっすぐに上を目指して泳いで行く姫様を、引き戻そうとするかのように、魚が二、三匹、まとわりついてきましたが、姫様にはもうそんなこともわかりませんでした。ただ一心に上を目指して泳ぎました。そして海面に顔を出すと、周りをきょろきょろと見回して、陸を探しました。でも、陸は見えませでした。そこで姫様は、自分の愚かさがわかりました。海は考えているよりもずっと広いのです。この前はおばあ様が道を知っていたから、すぐに陸が見えたのであって、ただ上に向かって泳げばよいというわけではなかったのです。姫様はしばらくぼんやりとしてしまいました。上を見ると、空が広がっていました。まあ、なんてきれいなんでしょう、と姫様は思わず言いました。この前は陸しか見えなかったけれど、これは何かしら、海面のようなものかしら。泳いでいけば、あの向こうに行けるのかしら。するとそこにはまた、不思議な陸があるのかしら。
 姫様がいろいろと考えていると、いつしか、大きな船が、近づいてきていました。その船に、あのヒナゲシと一角獣のしるしの旗がついているのを見て、姫様は驚いて、その船の方に泳いでいきました。日は暮れようとしていて、西の空が赤く染まり、明星がなにかのしるしのように燃えるように光り出しました。すると船についていたランプが一斉に灯され、船の船室の窓ガラスがみな、明るい月のように輝き出しました。姫様は船に近づき、波の上に自分の身をできるだけ持ち上げて、船室の中をのぞき込みました。すると一番に目に入ったのは、あの肖像画にそっくりの少年でした。きりりとまっすぐな強いまなざしの、美しい少年です。姫様は、立派な衣装を着たその少年の胸に、王家のしるしが縫い取られているのを見ました。とするとこの人は、陸の国の王子様なのだわ。姫様の胸は熱く高鳴りました。船室の中には王子様のほかにもたくさん人がいて、飲み物や食べ物が振る舞われ、何かのお祝いをしているようでした。多分王子様のお誕生日のお祝いでしょう。王子様は美しく男らしい物腰で、たくさんの人と握手したり、会話したりして、とても楽しそうでした。姫様はただ、その王子様の美しいまなざしばかり見ていました。ほかにもたくさん人間はいたけれど、あんな目をした人間は、王子様だけでした。
 いつの間にか夜が落ちてきました。姫様はふと、家に帰らなければおばあ様の言い付けを守らない事になると思い、海の国に急いで帰ろうと思いました。おばあ様はいつも、日が暮れたら必ず自分の部屋にいなければいけないよと、口を酸っぱくして姫様たちをしつけているのです。でも、姫様は王子さまの美しい目をもう一度見てみたいと思って、船の方に戻りました。帰るのはそれからにしましょう。きっとおばあ様に叱られるけど、素直に謝って罰を受けましょう。こんな方にお会いできるなんて、二度とないかもしれないのだもの。
 そうして姫様がもう一度海の上に顔を出したその時です。海の上を、不穏な風が吹きわたっていました。いつの間にか空の星は消え、月もありませんでした。空の遠くから、おおう、とお化けのような声が聞こえました。船は帆をあげ、海上を走りはじめました。姫様は何か悪いことが起こりそうな気がして、一生懸命に泳いで、船を追いかけました。もう船室のランプはほとんど消され、王子様の顔を見ることはできません。でも姫様は追いかけずにいられませんでした。もうおばあ様のお叱りのことも、王様のご心配のことも、全て忘れて、姫様は船を追いかけ続けたのです。

 そうして、嵐は瞬く間にやってきたのです。水夫たちは急いで帆を巻き上げました。大きな黒い波が船を翻弄し、船はぐらぐらと揺れました。姫様は船の方から、木がぎしぎしがらがら鳴る音を聞きました。何かがぼきりと折れるような音も聞きました。人間の甲高い悲鳴も聞こえました。
 これは大変なことになると思った姫様は、嵐の波に邪魔されながらも、懸命に船についていきました。姫様の胸には、あの美しい王子様のお顔が焼き付けられたかのように光っていました。
 風はすさまじく、波は恐ろしく、王家の立派な船もさすがにかないませんでした。水夫たちの努力もむなしく、船は真っ二つに割れ、沈みだしました。姫様は悲鳴をあげ、夢中で王子様の姿を探しました。そこらじゅうに、樽や太いマストの棒や板っきれが浮いていました。姫様は思い切り呼びました。
「王子様! どこですの?」
 すると、弱い声が返ってきたような気がしたのです。姫様がその声に振り向きますと、暗がりの中に、だれかがいるのがわかりました。途端に、空に稲光が走り、そこに一瞬、板っきれに捕まって今にも溺れそうな王子様の姿が見えたのです。姫様はすばやく王子様の所まで泳ぎ走り、気を失った王子様の冷たいお体をがっしりとつかまえました。
 また稲光が走り、王子様の白い顔が見えました。姫様は思わず知らずそのお顔にみとれ、美しいまなざしを隠したまぶたにかすかにキスをしました。胸がじんじんと熱くなり、涙さえ流れてきました。でも、これからどうしたらいいでしょう。人間は人魚のように海の中では生きて行けません。溺れてすぐに死んでしまいます。でも、陸がどっちの方向にあるのかも、今の姫様にはわかりません。
 そのときでした。一匹の大きな海ガメが、目の前に現れたのです。海ガメは相変わらず悲しそうな顔をしながら、姫様を見、まるでついてきなさいとでもいうように、頭を水面に出して泳いで行くのです。姫様は、ほかに頼るものなど何一つないので、一縷の希望と思って、その両手にしっかりと王子様を抱いて、海ガメの後を追って泳ぎだしました。
 そしてどれだけの間泳いだことでしょう。姫様は気を失っている王子の頬に何度もキスをしながら、どうか死なないでと祈り続けました。海ガメはときどき、ついてきているかどうかを確かめるように、二人の方を振り向きました。そして、本当に不思議なことに、海ガメはちゃんと陸を目指して泳いでいたのです。新しいお日さまの気配が東の空に見えてきました。もうその頃には、嵐はもうとっくに向こうに行っていました。静かな海の向こうに陸の影が見えたとき、姫様は喜びのあまり、海ガメに向かってお礼を叫びました。でもその時にはもう、カメの姿はどこにもなかったのです。
 姫様は、一生懸命に泳いで、とうとう、王子様の身体を砂浜の上まで連れて行きました。姫様は陸の上を歩けないので、もうここまでしか来ることはできません。後は、陸の人間のだれかに見つけてもらうしかありません。姫様は砂浜に王子の身を横たえると、海の少し離れたところから目から上だけを出して、王子様の様子を見守りました。
 間もなく、朝を告げる鐘がどこからか聞こえてきました。それから少しして、海の近くにある小さな修道院から、白い制服をきた少女たちが群れをなして出てきました。姫様は、その中のだれかが悲鳴をあげて、王子様の方に走り寄って来るのを見ました。そして少女が王子様に何か声をかけたとき、王子様の顔が少し動いたことに気づきました。王子様は目を覚まされたらしく、首をあげ、ゆっくりと体を起こして、周りを見回していました。
(ああ、よかった。これできっと、あの人は助かるわ)
 そう思って、姫様はようやく安堵して、海に沈んで帰っていきました。

(つづく)




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする