「わかったわ。美しいものを、ひとつでいいのね。何がいいかしら」
「その金色の髪も、青い真珠のような瞳の色も、乳のように白い肌も美しいが、あたしが一番欲しいのは、おまえのその美しい声だよ」
「声?」
「ああ、そうとも。美しい声ほど、人の心に染みいるものはない。その声と引き換えに、おまえの人魚のしっぽを人間の足に変える、魔法の薬をやろう」
「わかった。声でいいのね」
「ああ、そうとも」
そう言うと魔女は、洞窟の奥に引っ込んで、何やらガチャガチャとやり始めました。姫様は洞窟の入り口の庭に出て、しばしぼんやりしていました。魔女の洞窟の庭には、小さな緑のサンゴや、赤い小さな実をつける珍しい海藻が植えてありました。ところどころに青く光るヒトデがいて、それは星のように並んで美しい星座を作っていました。少し足をずらして洞窟に入りこむと、洞窟の隅の方で、一重の薔薇のような飾りをつけた珍しい金色のホヤが何匹も壁にくっついていました。
「美しいものが、とても好きなのね」
姫様はゆっくりと言いましたが、その声は幾分かすれて聞こえました。
「できたよ、馬鹿娘よ」
魔女は洞窟の奥から、青い壜に入った薬を持って、出てきました。姫様は言いました。
「わたしは馬鹿ではないわ」
「今はわからないだけさ。いいかね、教えてあげるよ。この薬を、陸の国の王様の御殿の、大理石の階段の上で飲むがいい。おまえはしばらく眠るだろうが、目が覚めた時には、その人魚の尾の代わりに、それはきれいな二本の足ができているだろうよ。だが注意しておくよ、薬を飲んだら、もう二度と人魚には戻れない。けれども足ができたって、おまえは全く人間になれたわけじゃない。おまえが好きなその男が、おまえを愛して、おまえと結婚したら、その時になって初めて、おまえは人間になれるんだよ。けれどもそいつがおまえを愛さずに、ほかの女と結婚したら、おまえはすぐに命が縮まって、海の泡になって消えてしまうのさ。それでもいいかい?」
「いいわ。だってわたし、あの人のいない暮らしなんてもういやなのだもの」
「わかった。これで契約は成立だね」
そう言って魔女は薬のビンを姫様に渡しました。姫様は、お礼を言おうとしましたが、そのときにはもう、ひとこともしゃべれなくなっていました。魔女は、ふふふ、と笑いながら洞窟の奥に消えてゆきました。その声は、さっきまで姫様のものだった声でした。
魔女のところから去ると、姫様は薬のビンを大事に胸に抱いて、海面に向かって上ってゆきました。ふと、御殿にいるお父様の王様や、おばあ様や、おねえ様たちのことを、思い出しました。これでもう二度と会えなくなると思うと、胸が張り裂けそうになりました。でも、もう自分で人間になることを決めていたので、今さら引き返す気にはなれませんでした。せめて、わかれのことばくらい言いたいと思いましたが、もうその声も出ないのでした。姫様は、御殿の方に向かって、人魚の心で愛を送りました。みな、幸せでねと、心から願いました。
姫様が海面に顔を出すと、空は月夜でした。その白い月の光に照らされて、海面は闇の中に白い貝を散らしたように光って揺れていました。遠くに目をやると、人間の国の町の明かりが見えます。王様の御殿の明りも見えます。姫様は薬を胸に抱き、心勇んで御殿の方に向かいました。
そして、広間から海に下る例の大理石の階段まで来ると、姫様は階段の一番下の段に体を置き、そっと薬のビンのふたを開けました。すると、何だか白い煙のようなものが出てきて、目がしばしばとしました。涙も流れてきました。妙な匂いがして、少し吐き気も感じましたが、姫様は目を閉じてそのビンに口をつけ、一息に飲み干してしまいました。そしてその薬が全て姫様のおなかのなかに入ったとたん、姫様は急に眠くなって、大理石の階段の上で、ことんと気を失ってしまったのです。暗い夢のとばりが落ちて来て、姫様は深い眠りに落ちました。夢の中では、悲しそうな海ガメの瞳が、月といっしょに星のように空にかかっていました。
(つづく)