そうしてひと月が過ぎたのです。その日は、王子様と子爵家の令嬢との結婚式の日でした。コクリコは、大きな教会の末席で、王子様と花嫁が幸せそうに愛を誓うのを見ていました。コクリコは大好きな王子様が幸せならそれでいいと、思うことにしたのです。結婚式が終わると、王子と花嫁は、王家の船で新婚旅行に行くことになっていました。そして王子は、コクリコも一緒に連れて行くことにしていました。
きっと王子様は、あの大きな船の豪華な船室で、あの美しい花嫁と深い愛を交わすことでしょう。そしてそのときが、自分の死ぬ時なのだと、コクリコは覚悟していました。もう二度と、王子様にも、故郷のお父様やおばあ様やおねえ様たちにも会えないのです。
船の中でも、結婚を祝うパーティが、花婿と花嫁を囲んで行われました。でもコクリコだけは、そっと船室を抜け出して、甲板に出て月を見ながら涼しい夜風に吹かれていました。そして、欄干にもたれて海の方を見ていると、だれかが姫様を呼ぶ声がしました。見ると、月光が照らす海の中に、なつかしい五人のおねえ様たちがいるではありませんか。でも、どうしたことなのか、おねえ様たちには、あの長く美しい髪がありませんでした。みな、子供のように短く髪を切っていたのです。
(お姉さまたち、どうなされたの。その髪は)
姫様はものが言えないまま、ぱくぱくと口を閉じたり開けたりしました。それでも心は届いたらしく、おねえ様たちは言いました。
「おお、かわいいわたしたちの妹よ、ずいぶんとおまえを探していたのよ。魔女に聞いて、やっとおまえの居場所をつきとめたの。そしてね、おまえが死なずにすむ方法を教えてくれる代わりに、わたしたちは、美しい髪をみんな魔女にやってしまったのよ」
それを聞いた姫様は、またびっくりして、自分の浅はかさを責めました。自分がいなくなったことが、これほどみなを苦しめるとは、思っていなかったのです。今更ながら、姫様は大変なことをしてしまったと、後悔の念におなかをしぼられ、涙をとめどなく流しました。
「ほら見て、妹よ。髪の代わりに、この短剣を魔女にもらってきたのよ。今夜のうちに、この短剣で王子の胸を刺して、その血を足に浴びせると、おまえは人魚に戻れるのよ」
そういうと、一番上のおねえ様が、ほかの四人のおねえ様たちに抱えあげてもらって、船の甲板に届くところまで上げてもらいました。姫様も手を伸ばして、おねえ様の手から、短剣を受け取りました。
「いいこと、今夜のうちに、明日の朝日が昇る前までに、王子をその短剣で殺すのよ」
それだけを、何度も何度も口々に言い重ねてから、おねえ様たちはまた海の中に消えていきました。
姫様は、重い短剣を持ちながら、おねえ様たちが消えていった海をしばらくぼんやりと見ていました。
やがて、船上でのパーティも終わり、花嫁と花婿は、船の中の一番豪華な部屋に、二人で入って行きました。姫様はその様子を見て、まだ胸にちくりと刺すものを感じました。上着のふところに隠した短剣を、とても重く感じました。お姉さまが何度も叫ぶように言っていたことを思い出すと、胸が震えました。あんなに美しかった髪をやってまで、魔女からこの短剣をもらってきてくれたおねえ様たちのことを思うと、とてもその気持ちを無下にはできないと思いました。でも、王子様をこの短剣で手にかけるということも、とてもできないことのように思えました。こんなにも愛しているのに、どうしてその人を殺すことができるでしょう。でも、自分が死んで、悲しむおねえ様たちの心をも思うと、ここで死ぬわけにもいかないという思いも浮かんでくるのです。
真夜中になりました。また甲板に出ると、海の音が懐かしく聞こえました。きっと生きながらえて海の国に帰れば、みんなが自分の無事を喜んでくれるでしょう。けれども、そのためには、最も愛している人を、殺さねばならないのです。
姫様は、月の光が写った海を見下ろしました。もうそこにはおねえ様たちはいませんでしたが、不思議なことに、一匹の海ガメがふらふらとただよって、悲しげな目で姫様を見上げていました。
(ああ、おまえはいつか、王子様とわたしを助けてくれたカメなのね。きっとそうだわ。今回もわたしを助けてくれるの?)
姫様は心の中で問いかけました。でもカメは何も答えず、そのまま海の中に消えていなくなりました。姫様は再び、独りぼっちになりました。姫様は長いこと眠りもせずに甲板の上に立っていました。やがて、空の星がだんだんと少なくなり、夜明けの気配が空に見えだしました。姫様は気持ちを静めて、短剣を握り、王子様と花嫁の眠っている船室に向かいました。そしてその扉に耳をつけて、中の様子を探ろうとしました。扉の向こうで、王子様が何かの寝言をむにゃむにゃと言っているのが聞こえました。そうするともう、姫様の胸は、王子様への愛でいっぱいになったのです。そして姫様は涙をほろほろと流されると、足音を立てずに走って行って、短剣を海に投げると、そのまま、自分も海に飛び込んでしまいました。
そのとき、東の空に、お日さまの光が見えました。そうして、姫様の身体は、見る見るうちに、泡になって海に溶けていったのです。
夜が明けて、船の上の皆が起き出してくると、間もなく、王子様がコクリコがいないと騒ぎ出しました。花嫁も驚いて、コクリコの部屋を見に来ました。あちこちの部屋も探してみましたが、コクリコは見つかりません。
「ああ、ぼくの大切なコクリコ、どこに行ってしまったんだい。君は、君だけは、ずっとぼくのそばにいて、ぼくの心をわかってくれると思っていたのに」
王子様は顔を覆って泣き出しました。というのは、水夫の一人が、姫様が着ていた上着が海に浮かんでいるのを見つけたからです。
きっと、夜中に甲板に出て、なんらかの事故で海に落ちたのだろうと、水夫の一人が言いました。船の上は悲しみに包まれました。そして、その様子を遠くから見ていたおねえ様たちも、あわれな妹の最期に、涙にくれていました。もう二度と、もう二度と、あの娘には会えないのだと思うと、それだけで皆の胸が冷たく凍るようでした。
王子様と花嫁は新婚旅行を取りやめ、御殿に戻りました。おねえ様たちも、海の御殿に帰りました。日に照らされた海は平らかにないで、何もなかったかのように静かでした。けれども、たったひとりの娘が消えていなくなった。それだけでもう、まるで太陽が半分になってしまったかのように、世界が寒くなったようでした。
ただ、一匹の海ガメが、姫様が泡になって溶けていった海の上に、静かに浮かんでいました。海ガメは、いつものように悲しそうな目で、空を見上げました。そして海ガメは知っていたのです。姫様の魂がどこに行ったのかを。そこは、遠い空の向こうにあって、人間も人魚も関係なく、仲良く一緒に住める美しい国でした。でもそれは、海ガメだけが知っていることで、永遠にだれにも言ってはいけないことなのでした。
(おわり)