★★
御殿に帰ると、姫様はやっぱり、王様とおばあ様に強くお叱りを受けました。姫様は素直に謝り、どんなお仕置きでも受けますと言いました。王様は、海に沈んだ船に出会って、見捨てておけず、人を一人助けてきたという、姫様の行いもよいことだと思い、お仕置きなどはやめようと思っていましたが、おばあ様はやはり、言い付けを守らなかったことは厳しくお仕置きをせねばならないと思って、長いため息をつきながら、姫様に謹慎を言いつけました。
そこで姫様は、三日の間、自分の部屋から出てはならないことになりました。姫様は三日の間を、おとなしく部屋に閉じこもって、貝殻を集めて、小さな石の上でひっくり返したり戻したりする、トランプのような一人遊びをしたり、お姉さまが慰めのために持って来てくれた珊瑚の人形やイザリウオと遊んだりして過ごしました。その間も、胸の中には王子様の面影が漂っていました。もう一度お会いしたい。でも、人魚は人間に姿を見られてはならないのです。その理由は、教えてもらえませんでしたが、言いつけはまもらねばなりません。
三日が過ぎて、やっと外に出るのを許してもらえると、姫様はまず、あの難破船の小屋にある少年の像のところにいきました。そこには、あの大理石の彫像が変わらず立っていました。その強いまなざしと、引き締まった口元が、あの人に似ています。見ているうちに、涙が出てきて、姫様はいつしか大理石の彫像を抱きしめていました。
ああ、もう一度会いたい。でもどうしたらいいでしょう。人魚は絶対に人間に姿を見られてはならないのです。でも、この苦しい胸の思いは、どうしたらいいでしょう。
何日も何日も、姫様は毎日のように彫像に会いにゆきました。そして叶わぬ思いの悲しみのまま、彫像にそっとキスをしたり、美しい貝殻の首飾りをかけてあげたりしました。あの人は今頃どうしているのかしら? 何を思っているのかしら? 姫様はそんなことばかり考えて、ほかの姫様たちともあまり話をしなくなり、いつも一人でいるようになりました。
人間になることができたら。淋しさの中で、ふと、姫様は思いました。人間になることができたら、あのお方にお会いすることができるのに。そんな姫様の頭の中に浮かんだのは、ある、魔女のことでした。姫様は前に、御殿の召し使いの人魚に、聞いたことがあるのです。
明るい海の国の一隅に、恐ろしい谷があって、そこには一人の不気味な魔女が住んでいるのです。その魔女は昔、魔法と毒薬で恐ろしいことをしたことがあり、王様からお恵みを取られて、都から追放されてしまい、そんな所にずっと住んでいなければならないのだということでした。そこがどこか、だれもが知っていますが、だれも行ってはならないという、とても悲しいところに、魔女はずっと住んでいるのです。魔女は昔、それは美しい女の人魚だったのですが、魔法で悪さをしてから、とても醜い老婆のような姿になってしまったのだそうです。
恐ろしいことをしたというのが、どういうことなのかは知らないのですが、そのせいで、人魚の国がとても困ったことになり、王様とお妃さまが大変なご苦労をなさってなんとか元にもどしたのですが、その時のことがもとでお妃さまがご病気になり、泡になって亡くなってしまったのだそうです。
それならば、姫様たちを母なし子にしてしまったのはその魔女だということになりますが、王妃様が亡くなられたのは、この姫様がまだ赤子のときのことでしたので、それほど辛いこととも思われず、姫様は、王子様に会いたい一心で、魔女のところに相談にゆくことに決めてしまいました。
そして、思い立ったら一秒も待てない姫様は、すぐに御殿を出ていって、国の外れの谷までまっすぐに泳いで行ったのです。途中で、イワシの群れが泡を吐きながら姫様を巻き込もうとしましたが、姫様は瞬時に避けてやり過ごしました。また次には、大きなサメが何匹も出てきて姫様の行く手を遮りましたが、姫様は美しい歌を美しい声で歌って、サメをすべて眠らせ、また泳いで行きました。最後に、もうすぐでその谷につくというところで、海ガメに会いましたが、海ガメはただ、悲しそうな目で姫様を見つめるだけでした。
魔女が住んでいるという谷は、それは深い奈落でした。といってもこの奈落の底に住んでいるというわけではなく、その崖の途中にある、小さな洞窟に、魔女は住んでいるのです。谷の周りには、腐ったようなにおいを放つ、リンゴのような実をつけた不思議な海藻が揺れていました。その海藻は揺れながら、ひそひそと何かを呟いているような気がしました。それは、姫様の耳に、「悪いことをしたら、こんなことになるんだよ」と言っているように聞こえました。
わたしは悪いことをしようとしているのかしら? そんなことはないわ。ただあの人に会いたいだけなのに。どうしたらあの人に会えるか、相談したいだけなのに。
姫様は海の底に割れた谷の裂け目のふちに座り込み、谷の中をのぞき込みました。谷の中には銀色をした深海魚がてかてか光りながら群れ泳いでいて、谷の中をゆらゆら照らしていました。魔女の住んでいる洞窟の前には、青い岩が突き出していて、そこはちょっとした庭のようになっていて、いろいろな海藻や珊瑚が植えてありました。姫様はなんだかお腹がきゅんと痛むような思いがしましたが、思い切って谷の底を目指して泳いで行きました。
洞窟の前まで来ると、洞窟の奥から、からからという貝の鈴の音が聞こえました。身分の高いものでなければつけてはいけないはずの、貝の鈴の音です。だけど魔女はおかまいなしに、そんなものをたくさんつけて、自分の身に飾っているのでした。
「おはいり、挨拶はしなくていいよ。なにもかもわかっているから」
洞窟の奥から、不気味な声が聞こえてきました。姫様は驚いて、そのまましばし凍りついたように動けなくなりました。
「あの馬鹿馬鹿しい人間の二本の足が欲しいのだろう」
その声に吸い込まれるように、姫様は洞窟の中に入って行きました。
「あ、あの人に会いたいの。ただ、それだけなの」
洞窟の中には一匹の深海魚が、ヒレに鉤を引っかけられて灯り代わりにつるされていました。そのぼんやりとした光の中で、海藻を織って作った毛布のようなヴェールをかぶって、魔女は醜い顔を隠しながら、姫様を指さして言いました。
「いやらしいこと。だから女はきらいなのさ。男を好きになって、すぐに馬鹿なことをするんだもの。おまえさん、かわいい子だねえ。男がおまえをみたら、さぞ、びっくりするだろうねえ」
姫様は、魔女が何を言っているのか、まるでわかりませんでした。ただ、震えながらもう一度繰り返しました。
「あの人に、会いたいだけなの」
「いいともさ。会わせてやろうとも。だがただじゃないよ。おまえさんに、二本の人間の足をやる代わりに、わたしに、おまえさんの一番美しいところを、ひとつおくれ」
「え? うつくしいところ?」
「そうとも、おまえはそんなにもかわいくて、きれいなんだもの。いいものをいっぱいもっているんだもの。美しいもののひとつくらい、あたしにくれたっていいだろうさ」
姫様は、よくわかりませんでした。けれど、確かに魔女の言うように、姫様はいつも、みなにとてもかわいらしいと言われていました。特に歌を歌う時の声は、人魚の国の誰よりも美しいと言われていました。
(つづく)