負傷者は、肩と右腕を黄色い布で巻かれていた。カーテンか何かの布だろう。目を固く閉じた顔が、黒糖のように黒くなっている。息はしているが、もう長くはもつまい。シリルはこみあげるものを感じ、うつむいて手で顔をおおった。
「なぜだ。なぜこんなことになった・・・・・・」
しばし沈黙が続いた。シリルは気付いていなかった。病院の中を迷っているうちに、時刻は夜になっていたのだ。執事がついてきているはずだが、あまりの惨状に呆然として歩いているうちに、はぐれてしまった。
暗闇が迫ってきた。時々負傷者のうめきが聞えるだけで、恐ろしい静寂に辺りは覆われた。椅子に座った姿勢のまま、シリルはいつしかうとうとしていた。その耳の中に、微かに美しいメロディが聞えて来た。透き通るような美しい音だ。同時に、薔薇の甘い香りも流れて来た。
シリルは夢の中で薔薇の庭の中にいた。ああ、これはうちの庭ではないか。園丁のアンブロワーズが、いつも世話をしている、自慢の薔薇の庭だ。最近は忙しくて見る暇もなかったが、アンブロワーズはちゃんとやっているらしい。なんといいにおいだろう。
記憶があざやかによみがえってきた。ふと、かすかに戦闘機の音が聞えて来た。見上げると、たった一機の戦闘機が、銀色に光りながら、青空を横切っていた。ああそうだ。だれかが言っていた。
「この国は、ガラスのアコーディオンを弾くように、難しい・・・・・・」
シリルは寝言のようにつぶやく自分の声を聞いて、目を覚ました。するとその耳に、誰かの答える声が飛び込んできた。
「おや、だんなにも聞こえるんですか、あの音が」
シリルは寝覚めのぼんやりした意識の中で、声の主を探したが、薄暗い常夜灯の明りの中では、負傷者たちの群れはまるで不確かな塊のようで、だれがだれだかわからなかった。
「あれは、ノエルが弾いてるんですよ。毎晩毎晩、おれたちのために」
声は続けた。話し方から察するに、若い男ではなさそうだ。
「あの音は、いいやつにしか聞こえないんです。誰も知らないことだけど・・・・・・」
「ほう、それはどういうことだね?」シリルが尋ねると、男は一、二度せき込んでから、答えた。
「だめですよ。こんなこと、だれにでも教えちゃだめなんだ。ああ、ジャルベールなんかに、入れるんじゃなかった・・・・・・」
声はそこで途切れた。沈黙と暗闇が、どうしようもない眠気をともなって、おおいかぶさってきた。
(つづく)