世界はキラキラおもちゃ箱・第3館

スピカが主な管理人です。時々留守にしているときは、ほかのものが管理します。コメントは月の裏側をご利用ください。

風の断旗⑪

2018-06-08 04:17:14 | 夢幻詩語



アマトリア陸軍少佐エミール・ガズルは、私用の電話を終えると、自室から出、廊下を何度か折れて、大統領執務室に向かった。そこには、アマトリア第二十代大統領ピエール・ジャルベールの首つり死体が、下ろされて寝かされているはずだった。

ガズルは、ジャルベールの護衛としての任務にあたっていたが、同時に、シリル・ノールの密偵としても働いていた。苦い職務だが、彼はシリルに恩義があったのだ。

老いた母が不治の病にかかった時、シリルは彼によい医者を紹介してくれ、治療費の一部も貸してくれた。おかげで最初半年と言われていた母の寿命は三年に伸び、エミールは心行くまで孝行することができたのだ。

母親を心から愛していたエミールにとって、シリルは恩人であった。だからジャルベールの護衛として働くことが決まった時、シリルの密偵として働くことも引き受けた。内心、ジャルベールでは国が危ないと考えていた軍人の一人だった。

「とにかく、このままにしておくことはできない、が・・・・・・」

執務室のドアを開けた時、彼の耳に聞こえたのは、同僚のそんな声だった。

「副大統領はどうした。コンドは?」

エミールが聞くと、他の同僚が答えた。

「フランソワ・コンドは行方不明だ。一昨日あたりから姿が見えない」
「ジャルベールが自殺したのはそのせいかな?」
「おそらく」
「コンドだけが、ジャルベールの頼りだったか」

ジャルベールの遺体は、執務室の窓の下に寝かされていた。毛布をかけられ、顔は見えないようにされているが、覆いきれなかった足だけが、上等の革靴を履いたまま、たけのこのように天井を差して固まっていた。

「国民にはどう知らせたらいいと思う? いやそもそもこれはわれわれの仕事なのか?」
「護衛はジャルベールが死んだ時点で終わりだろう」
「静かだな。他の職員はどうした?」
「知るもんか」

護衛官だけで話し合った結果、とにかく遺体はしばらく動かさないでおくことになった。警察に連絡すればすぐにコトがばれる。護衛官だけでは何の判断もできない。よい案が浮かぶまで、しばらく自室で待機、ということになった。でたらめにもほどがあるが、他に何も思い浮かばなかったのだ。

エミール・ガズルは自室に戻る前に、大統領府内部をめぐってみた。大方の職員は逃げたようだ。何てことだろう。国が大変なことになっているというのに、大統領府がほとんどもぬけの空とは。いや、そもそもここは大統領府なのか。あれは、あそこに転がっている死体は、大統領のものなのか?

無力感と冷え冷えとした疲労感に襲われたエミールは、一旦自室に戻った。そしてベッドに座ると、手は自然に電話をとり、番号を押した。

(つづく)




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