青城澄
これは試練の天使がかのじょを通じてやった活動の初期に描かれたものである。釈尊と比すれば、画家が違うのは明白である。
獅子の星ゾスマにこれはよく似ている。
彼の描いた天使の肖像の中では、ほとんどこれだけが、本人を見て描いたと言ってよい。
他の作品は、ずいぶんとモデルを無視している。雰囲気はあるが、あれらの作品を、われわれのイメージの参考にはあまりしないほうがよい。
この技術は男には簡単すぎる。かわいらしいかのじょだから生きるものだ。われわれが切り絵を切らなくなったのは、どうしてもこの技術では思うように自分らしく表現できないからである。
その中で、これだけはわれわれもいいと思えるものである。
青城澄はわれわれの総合ペンネームである。この存在は一つの媒体を多数の霊魂で利用しているという特殊なものだ。だから表現する芸術も特異なものになる。おもしろいものができるが、決して真似してはならない。
人間は自分で自分を使い、自分を表現しなければならない。それでこそ芸術は生きたものになる。人間の心が美しく表現した作品は、人間を美しくする。その正しい芸術のやり方に違反することをやるとき、ゾスマは必ず見ている。
馬鹿は彼に滅ぼされる。