2011年 5月 1日(日)
以前、取引会社の社長からUFJカード会員(恐らくゴールドカード所有者)に送られた冊子の中に上田市の特集記事を見せてもらい、コピーを取らせてもらった。それは画家でイラストレーターである小林泰彦氏が書かれた「上田城けやき並木遊歩道」という題名の旅行記。いつか、それに沿って上田城を見物しに行きたいと思っていた。今年になって真田太平記を読む機会に恵まれて、無事に読破できたのもあってGWには上田市へ!と計画を立てていた。
ここからはその「上田城けやき並木遊歩道」の文面を引用しながら、自分達の旅の記録として留めておきたい。
「上田城けやき並木遊歩道」
町の中央を千曲川が流れ、管平と美ヶ原に囲まれた上田は、信州の政治と文化の中心として1200年余の歴史を刻んできた。奈良・鎌倉時代に建てられた文化遺産が数多く残り、戦国時代には真田氏によって上田城が築城され、その壮大なドラマは池波正太郎が「真田太平記」に詳述している。しかも上田城は幕末まで城主が幕府の老中を務めるなど、日本史にぴて重要な役割を担った。現在は公園として多くの歴史ファンに親しまれている城跡内のけやき並木を始点に、数々の映画のロケ地ともなった歴史的な町並みやのどかな風景を歩く。
(1)真田氏によって築城された上田城を歩く。
上田城が昔、真田一族の拠点であったことは小説やドラマで有名だが、今回の上田散歩はその上田城跡のけやき並木から旧北国街道沿いの柳町(やなぎまち)というコースを歩こうと思う。
上田駅北口交差点は「お城口(おしろぐち)といい、城下町散歩のスタートにふさわしい。中央通りを松屋町で左折すると掘に突き当たるが、これは城跡ではなく、上田城初代城主・真田昌幸の長男・信之が関ヶ原の合戦後に建てた藩主居館の跡で、表門と堀と土塁が残り、重厚な門は松平氏時代の1790年(寛政2)の築、門の中は県立上田高校だ。
(別記)関ヶ原の戦いで上田城が破却された後、真田信之はこの藩主居館を建て、藩政を行った。門は火災にあい、1970年に再建されているが、江戸期建築の豪壮さが感じられる。
風情ある堀を巡り、市役所の北東の角を左折して大手通りを行くと正面が今度こそは上田城跡で、二の丸橋を渡れば二の丸跡だ。橋の下の道は今回のテーマであるけやき並木遊歩道で、この後で歩く。二の丸跡を行くと突き当たりに立派な櫓を左右に控えた櫓門が見えて、この中が本丸だ。
そこで櫓門の右手石垣の大石に注目しよう。「真田石」といわれるこの石は、真田信之が松代へ転封の際に運ぼうとしたがびくともしなかったという伝説の石で、昌幸の築城時に上田郊外の太郎山から運んだ緑色凝灰岩(ぎょうかいがん)とある。
(別記)東虎口櫓門の石垣に見られる大石「真田石」は、真田信之が松代転封のときに持ち去ろうとしたが、不動であったとの伝説を残す。この真田石をさじめ、上田城の石垣の石材の大部分は市街地北部にある太郎山産の緑色凝灰岩が使われている。
『初めて間近で見た真田石。本や写真で見た事がありましたが、実際目の前で見た真田石は正面から見ると物凄く大きな石でした。しかし横の隙間から覗くと、それほど厚みはありませんでした。赤矢印参照。隙間に堅い棒でも突っ込んで、てこの原理を生かして運び出せそうな感じだけど・・・。動かせなかったから伝説として言い伝えられているのでしょうネ。上田城の石垣は隙間無く積まれています。イイ仕事してますネ!ちなみに虎口(こぐち)とは城の通路の出口という意味だそうです。』
上田城は千曲川の河岸段丘上に築かれた平城で、千曲川の流れが天然の要塞となっていた。真田氏は上田の北東、真田郷が本領だったが、1583年(天正11)に真田昌幸によってここに築城が始まり2年後に一応完成、近くの神科台地上田庄(うえだのしょう)の名を借りて昌幸が「上田城」と名づけたとある。稀代の戦略家、戦術家といわれた昌幸の上田城は1585年(天正13)に徳川軍7000に攻撃されたが、2000足らずの兵力でこれを撃退(第一次上田合戦)。1600年(慶長5)には約3万8000という徳川秀忠の大軍(真田家は長男・信幸が家康側にあり攻城軍にいた)が攻めたが城兵2500ほどでまたも撃退。秀忠軍は多数の戦死者を出し惨憺たる敗戦で、しかも道に迷って最終目的の合戦の場(関ヶ原)に4日も遅刻して家康の怒りを買い、これが秀忠の強いトラウマとなった(第二次上田合戦)。けれども昌幸と次男・幸村の援護も空しく関ヶ原では石田三成側が破れ、両名は信幸の嘆願で助命されたが高野山麓の九度山(くどやま)に配流(はいる)となった。沼田城主だった信幸は信之と改名あいて上田城主を兼ね、9万5000石に加増された。しかし1622年(元和8)に松代へ転封になり、上田城には小諸の仙石忠政が入り、関ヶ原の戦い後壊され堀も埋められていた城(それで信之は城外に居館を設けて住んでいた)を再建、1964年(寛永18)に完成した。天守閣はなかったが本丸に7棟の二階隅櫓と2棟の櫓門が建てられた。いま城跡にある建造物では、唯一西櫓だけがそのまま残った遺構である。
東虎口櫓門左右の北櫓と南櫓は明治維新後1874年の廃城で民間に払い下げられ、何と郊外の上田遊郭に移築されて妓桜としてリサイクルされ、城郭の建物というのがうけて繁盛したとある。しかし、そういうリサイクルはいかがなものかということで昭和の中頃にもとの場所に戻して復元された。ちなみに1706年(宝永3)に仙石氏が但馬出石への転封の後、出石から松平忠平が入り、その藤井松平氏が版籍奉還まで続き、その間に城郭の増改築も行っており、たとえば西櫓の軒丸瓦に藤井松平氏の家紋が見つかる。
上田城東虎口櫓門を入ったら、まず真田神社に参拝し、社殿裏の真田井戸(城外に通じているので籠城のときに役立ったとあるが、それほど籠城戦が巧みだったということか)を見て、その先の西櫓へと向かおう。
(別記)上田城本丸跡にある「真田神社」は、真田、仙石、松平の歴代藩主を祀り、開祖の名を取って現在の名前になった。城下への侵入を防ぐ枡形などが残された、矢出沢川にかかる高橋周辺は、映画「たそがれ清兵衛」などのロケにも使われた。
真田井戸
(2)鉄道が走っていた堀に続くけやきの並木は季節ごとに美しい。
上田城西櫓は尼ヶ渕の崖上にあり、そこからの眺めはすばらしい。近くに千曲川、遠くに塩田平とそれを囲む山々、さらに美ヶ原やアルプスの高峰も望めて山国・信州にいることを実感する。
『ここで本編から一旦、離れてボクらは敷地内にある記念館と博物館へ見学しに行きました。』
上田市山本鼎(かなえ)記念館
山本 鼎(やまもと かなえ、1882年(明治15年)10月24日 - 1946年(昭和21年)10月8日) は、愛知県岡崎市出身で、長野県上田市に移住し、美術の大衆化、民衆芸術運動のなかに身を投じた版画家、洋画家、教育者である。(wikipediaより)
上田市立博物館
博物館では錦絵展が開かれていました。
『本編に戻りましょう。』
景色を楽しんだ後、本丸を囲む土塁を一周しよう。現存しない4棟の位置が特定されており、鬼門除けのために土塁の北東外角を切り欠いた部分(「本丸土塁の隅おとし」と言う。上田城の特色のひとつ。)を見てから
西虎口櫓門跡(西櫓の下)に至り、急な階段を注意深く下ったのち尼ヶ渕跡の遊歩道を辿る。
『ボクらは二の丸橋(博物館、平和の鐘の辺りからけやき並木へ下って行きました。沢山のけやきに囲まれた素敵な遊歩道は歩いていると心地良かった。』
(別記)上田城公園内を約300mにわたりまっすぐ貫くけやき遊歩道。樹齢100年とされ、四季折々の美しさを見せ市民の憩いの場となっている。
2度の大軍を撃退した城の凄みを感じながら歩いて行く。
『歩を進める度に真田太平記の文章がボクの頭の中を駆け巡る ー 上田領内は、信州でも、実り豊かな地である。そしてこの地には、真田昌幸が心魂をかたむけて築いた上田城が建っている。現在は復元され、現代風の鉄筋コンクリート造りだが、真田昌幸が建設した当時は、関ヶ原の戦いの間近ともあって、大軍との戦闘を意識した平城で、信玄公譲りとも言うべき、真田昌幸の巧みな戦術を十二分に発揮できる造りだった。天正13年8月に徳川の大軍一万余を、わずか三千そこそこの兵力で、この城に迎え撃った。真田昌幸、信之(信幸)、幸村が、ぴたり呼吸を合わせて、作戦はすべて成功し、徳川軍を思うさまに翻弄することができた戦いだった。後退する信之を、怒り狂った徳川勢が夢中で追う。これを信之が上田城の近くまでさそい込むと、弟の幸村が手勢をひきいて疾風の如くあらわれ、横合いから徳川勢をさんざん突きまくる。徳川勢はなおさらに焦り、怒り猛(たけ)って城門へせまる。このとき、石垣の上に仕掛けておいた大木を切って落とし、石垣へ取りついた敵兵が狼狽するのへ一斉に鉄砲を撃ちかけた。そこへ、いよいよ真田昌幸が粒揃いの強兵をひきいて城門から突撃し、たちまちに徳川勢を追い退けた ー 』
けやき並木の遊歩道が空堀の底にあるのは珍しく、またおもしろく、今回の散歩のハイライトコースなのだが、不思議なロケーションのこの場所には実は1928~1972年の間、上田丸子電鉄(現上田電鉄)真田傍陽線の軌道があった。真田傍陽線は上田駅と真田氏本領の地・真田町を結ぶ路線で、二の丸の南側にある段状の部分は「公園前」停留所のプラットホームの跡と聞いたし、橋下に残る碍子(がいし)も電車時代の名残と思われるので、そんな近代遺跡を探してみよう。
けやき並木が尽きたら坂を上って二の丸通りを北へ、「フルーツすずき」の所で右折をすると、これが旧北国街道だ。
『この右折する場所が分からず地図を見ていたら「フルーツすずき」のおばあちゃんが道を教えてくれました!ありがとう!右折して少し進むと「北国街道」の看板が見えました。』
北国街道は江戸を起点とする中山道と追分宿で分かれ、善光寺から直江津に達する幕府整備の道で、善光寺参りや参勤交代、佐渡の金を江戸へ運ぶ道として栄えた。真田昌幸は上田城築城と同時に城下町作りを行い、城周辺に侍屋敷町、その外に商人職人の町を計画し、その中心が海野町(真田氏の祖先、海野氏の里・海野郷の人々が移住)と原町(真田氏の居館があった原之郷の人々が移住)で、上田が宿場になると海野町に横町、原町分に柳町と田町ができた(これに職人町の鍛冶町、紺屋町を合わせた七町が上田の城下町)。こうして城下町で宿場町の上田が生まれたわけだ。
というところで、この散歩では緑橋を渡ると商家が多い柳町にさしかかる。
昔の家並みが旧北国街道沿いによく残っている柳町は上田でも珍しい歴史的な通りとして観光の目玉になっているので、ここはぜひ先を急がずに歩こう。
『以下のお店はボクらが気ままにカメラに収めたお店。その外にも魅力的なお店がたくさん並んでいました。柳町は今と昔が上手く融合された町で、歩いていると何だかタイムスリップをしたような感覚になる。とても魅力に溢れた町でした。』
お味噌の「信州上田 菱屋」。
毎年2月にしか仕込まないというお味噌を購入。「信玄味噌」という名前の味噌も気になった。
造り酒屋「岡崎酒造」。
(別記)1665年(寛文5)創業。340年余の昔より管平水系の水を用い、現在も長野県産の美山錦を原料に蔵の住みつき酵母と新開発のアルプス酵母などを使い、伝統的な手法による酒造に取り組む。
岡崎酒造の向かいに合った「鶴」と「亀」。
昨日も来たパン屋さんの「ルヴァン 信州上田店 (Levian) 」。
店内は女性客で大混雑してました。
『本編に戻りましょう。』
昔町見物のあと柳町を外れて中央通りを行くと、「真田太平記」で上田にゆかりの深い池波正太郎の、その名も「池波正太郎真田太平記館」がある。
(別記)戦国時代から江戸時代にかけて、上田の地をおさめた真田氏を描いた「真田太平記」。著者である池波正太郎はその取材のために上田をたびたび訪れ、上田の町と、そして信州をこよなく愛した。同館ではこの歴史長篇小説の世界を物語年表や地形模型などを用いてわかりやすく解説する他、池波氏の自筆原稿や年賀状、数々の遺品などを通じ、彼とその作品の魅力を伝える。
『真田太平記を読み終えたばかりだったので、池波正太郎真田太平記館の展示物を見ていると物語の内容が思い浮かんで来て、感動が深まりました。文才の片鱗に触れられた様な気がしました。』
『本編は池波正太郎真田太平記館を出て、中央通りを進んで上田駅に着いて一先ずゴールになるが、ボクらは「別記」に書いてあった、上田駅のすぐ近くにある「若菜館」という鰻料理店へ向かいました。』
(別記)1897年(明治30)創業の鰻料理の老舗は地元の人たちに世代を超えて親しまれている。しかも味のよさが口コミで広がり、いまでは軽井沢に別荘を構える食に通じた人たちも足を運ぶほど。十分に臭みを取り除いた鰻を素材に代々女将にのみレシピが受け継がれてきた秘伝のタレを用いて供される蒲焼きは絶品。ほかにも白焼きや肝焼き、旬の地物を用いた酢の物や小鉢など一品料理も評判を集めている。
食べログ
http://r.tabelog.com/nagano/A2004/A200401/20000915/
若菜館ホームページ
美味しいお昼ご飯でお腹を満たしたら、駐車場からS2000を引き取って乗り込みました。
今度は車での移動です。楽しかった上田市の中心部を後にしました。
今回の散歩道。
赤矢印・・・主な経路。
青矢印・・・上田城のけやき並木の遊歩道。
緑矢印・・・旧北国街道。
2011年 ぶらり旅「信州&北陸/総括 編」