S2000奮闘記

スポーツカー偏愛録。
S2000のメンテナンスノート。

2011年 S2000ぶらり旅「信州&北陸/金沢市 近江町食堂 編」

2011年05月02日 | 周遊紀行 / 北陸地方
2011年 5月 2日(月)
兼六園からホテルに戻り、荷物を置いてから
夕飯を食べに近江町食堂へ行きました


白海老唐揚

がすえび刺身

写真を採り忘れたけど
のどぐろの刺身、ハラスいしる焼き、海戦丼も美味しかった
加賀梅酒も美味

いさざ踊り食い
新鮮


どの料理もリーズナブルで
新鮮で美味しかったです。
ごちそうさまでした

近江町食堂 (おうみちょうしょくどう)
石川県金沢市青草町1 近江町市場
Tel.076-221-5377
食べログ http://r.tabelog.com/ishikawa/A1701/A170101/17000046/


2011年 ぶらり旅「信州&北陸/総括 編」
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2011年 S2000ぶらり旅「信州&北陸/金沢市 兼六園 編」

2011年05月02日 | 周遊紀行 / 北陸地方
2011年 5月 2日(月)
兼六園へ行きました。


(パンフレットより)
兼六園は江戸時代の代表的な林泉回遊式大庭園の特徴をそのまま今に残している。
もともと兼六園は金沢城の外郭として城に属した庭であった。
庭としての歴史は、城に面した傾斜地が古い。加賀藩5代藩主・前田綱紀(つなのり)が1676(延宝4)年、この地にあった作事所を城内に移し、蓮池御亭(れんちおちん)を建て、その周辺を作庭した。これが本園の始まりで、当時、蓮池庭(れんちてい)などと呼ばれていた。
1759(宝暦9)年金沢大火で、蓮池庭も大半が焼失した。11代藩主・治脩(はるなが)は復興に取り組み、1774(安永3)年に今にみる夕顔亭や翠滝(みどりたき)を築造している。
一方、東南の平坦地である千歳台一帯は、7人の家臣の屋敷があったり、藩校が建てられる変遷があったが、1822(文政5)年には12代藩主・斉広(なりなが)の豪壮な隠居所ー竹沢御殿が完成している。その庭には辰巳用水を取り入れて曲水をつくり、各種の石橋を架けた。竹沢御殿の完成した年に斉広は奥州白河藩主・白河楽翁(らくおう)に庭園の命名を依頼した。楽翁は中国宋の時代の詩人・李格非(りかくひ)の書いた洛陽名園記の文中から採って、宏大(こうだい)・幽邃(ゆうすい)・人力(じんりょく)・倉古(そうこ)・水泉(すいせん)・眺望(ちょうぼう)の六勝を兼備するという意味で「兼六園」と命名した。
竹沢御殿完成後、わずか2年で斉広は死去した。同御殿を取り壊した13代藩主・斉泰(なりやす)は、霞ヶ池を掘り広げ、曲水の新たな取り入れも行い、以前からあった蓮池庭と調和するよう作庭した。
こうして、今にみる雄大な回遊式庭園の基本的な構図はできあがった。
廃藩後、1874(明治7)年5月7日、兼六園は一般開放された。1922(大正11)年3月8日に「史跡名勝天然記念物法」の規定により、「名勝」の指定を受けた兼六園は1950(昭和25)年、現「文化財保護法」により改めて「名勝」の指定を受けた。さらに、1985(昭和60)年3月20日、「特別名勝」となった。


徽軫(ことじ)燈籠。
形が琴の絃を支える駒(琴柱)に似ているところから名付けられたといわれている。前に架かる虹橋は、琴の胴に見立てて、別名「琴橋」ともいわれる。

唐崎松(からさきのまつ)。
13代藩主が近江の唐崎から種子を取り寄せて実生から育てたもので、園内で最も枝ぶりが見事な黒松。冬には雪吊がほどこされ、北陸の冬の風物詩となっている。

霞ヶ池。

雁行橋(がんこうばし)。
11枚の赤戸室石を使って雁が列を飛んでいる姿に作られているので「雁行橋」と呼んでいる。また一枚一枚の石が亀甲の形をしているので亀甲橋ともいう。
(同行人の説明を受けるまで雁には見えませんでした

兼六園菊桜。
花弁の数が300枚以上なのが一番の特徴。

根上松(ねあがりのまつ)。


曲水。
園内を流れる曲水の豊かな水は、1631年の寛永の大火の翌年、3代藩主・利常(としつね)の命により町人 板屋兵四郎が城の「防火用水」としてつくった辰巳用水を利用している。両岸には桜が植えられ、4月の開花時には杜若(かきつばた)の若緑とともに美しい景観を楽しめる。

夕顔亭。
園内で最も古い建物で、1774(安永3)年に建てられた茶室。茶席の次の間の袖壁に夕顔(瓢箪/ひょうたん)の透(すかし)があるので夕顔亭という亭名がつけられている。

翠(みどり)滝。

噴水。
上にある霞ヶ池を水源としており、自然の水圧であがっている。通常、水の高さは3.5メートルで、霞ヶ池の水位の変化によって変わる。1861(文久元)年、金沢城二の丸の居間先に噴水があがっているが、兼六園の噴水はその試作といわれている。日本最古といわれている噴水。

虎石。
(見えるような、見えないような


庭園を見て、風流を感じるには
ボクにはまだチョット若いかな?
もう少し大人になったら
もっと楽しめただろうね。

2011年 ぶらり旅「信州&北陸/総括 編」
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2011年 S2000ぶらり旅「信州&北陸/金沢市 ひがし茶屋街 編」

2011年05月02日 | 周遊紀行 / 北陸地方
2011年 5月 2日(月)
お昼を食べた後は、ひがし茶屋街へ向かいました

情緒ある町並み。
でも色んなお店に入って行く同行人を追うのに精一杯で
何処のお店に入って何を買ったか覚えていない(笑)


お茶屋さんで「加賀棒茶」を買った後、
疲れもピークに達していたので
そのまま休憩

棒茶と和菓子のセット。


棒茶の味で疲れも取れました
美味しかったです。ごちそうさまでした。


「日々のお茶とは
 日々の暮らしとは
 季節のうつろい
 花のうつろい
 人が通って、日々を重ねる」

「愉しいことは日々にある」

茶房一笑 (さぼういっしょう)
石川県金沢市東山1-26-13
Tel.076-251-0108
食べログ http://r.tabelog.com/ishikawa/A1701/A170101/17000060/


棒茶を飲んだ後に「甘味カフェ 茶ゆ」で
棒茶アイスを食べてから
(美味しかったです。ごちそうさまでした
バス停に向かい、バスに乗って
ひがし茶屋街を後にしました

甘味カフェ 茶ゆ
石川県金沢市東山1-7-8
Tel.076-253-1715
食べログ http://r.tabelog.com/ishikawa/A1701/A170101/17005341/


2011年 ぶらり旅「信州&北陸/総括 編」

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2011年 S2000ぶらり旅「信州&北陸/金沢市 不室屋 編」

2011年05月02日 | 周遊紀行 / 北陸地方
2011年 5月 2日(月)
お昼を食べに「加賀麩 不室屋(ふむろや)」へ行きました

慶応元年、創業のお店。
人気店なので満席でしたが
同行人が予約を入れておいてくれたおかげで、すぐに席へ通してもらえました




皐月(五月)麩久箱膳


(蓋裏膳)
生麩昆布〆明太子のせ アスパラ塩茹で
生湯葉 揚げ花麩 山葵 濃口あん
みねおか豆腐 わさび醤油


(麩久箱)
車麩 ぜんまい 胡桃和え 丁字茄子 三つ葉 
山独活 木耳 くらげ 梅肉和え
さざえ殻盛 丁字麩 分葱 若布 ぬた和え
生麩岩石揚 タラの芽揚ひたし 海老旨煮 
珠麩入り玉子焼 稚鮎唐揚 すだれ麩寿し


(煮物)治部煮
南瓜 巻ゆば すだれ麩 市姫麩
竹の子 どんこ椎茸 鳥肉
スナック豌豆 細工麩 山葵


(飯)白御飯 ゆばちりめん
(汁)加賀味噌仕立 生麩 ゆば 小葱
(香の物)沢庵 野沢菜 しば漬け


初めて食べた加賀麩の御膳。
感動的な美味しさに圧倒されました
美味しかったです。ごちそうさまでした。

加賀麩不室屋 本店
石川県金沢市尾張町2-3-1
Tel.076-224-2886
食べログ http://r.tabelog.com/ishikawa/A1701/A170101/17000074/


2011年 ぶらり旅「信州&北陸/総括 編」



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2011年 S2000ぶらり旅「信州&北陸/金沢市 金沢城 編」

2011年05月02日 | 周遊紀行 / 北陸地方
2011年 5月 2日(月)
金沢城へ行きました
1583年(天正11)に前田利家公が城主になり、その後、幾度の火災により焼失してしまい、平成になってから復元されたお城です。

河北門(かほくもん)から登城しました。
門の前に立ちはだかる坂が難関でした(3●歳の運動不足には)。
お城マニアの方々から言わせると「攻める」と言うらしいです

(パンフレットより)「河北門」は、金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する「三の丸の正面」であり、金沢城の実質的な正門です。現存する「石川門」と「橋爪門」と共に「金沢城三御門」と呼ばれていますが、金沢城の建物の大半が焼失した宝暦の大火(1759年)の後、三御門の中で最初に再建された重要な門です。


河北門を抜けると、目に飛び込んで来たのが菱櫓。
(パンフレットより)二の丸で一番高い三層の物見櫓。尾坂門、石川門を一望できる。石落しを多く持ち、実戦的で、なおかつ華やかな櫓。


橋爪門続櫓。
(パンフレットより)二の丸大手の橋爪門枡形に付随する三層の物見櫓。三の丸で戦闘が起きたときの指揮所。
 

橋爪橋・橋爪一の門。
(パンフレットより)橋と一の門(高麗門)は、二の丸大手である橋爪門枡形の入口を構成する。枡形は一の門を入り、今回(2001年/平成13)復元した橋爪門続櫓に沿って右折すると、二の門があった。


鶴の丸の土塀。
(パンフレットより)土塀の三の丸側の腰部は海鼠壁で覆われている。鉄砲狭間は隠し狭間で、通常は海鼠壁の板瓦でふさがれている。堀の内部には小石が詰められている。


五十間長屋。
(パンフレットより)菱櫓と橋爪続櫓を結ぶ二層の多聞櫓。普段は倉庫として用いるが、非常時は戦闘のための砦となる。石落しを各所に備え、格子窓は鉄砲狭間となる。

五十長屋の内部。
何モ無イヨ
(パンフレットより)日本に古くから伝わる木造軸組みの工法。柱、梁を組み合わせ、小屋を架ける。柱は桧、角梁は米ヒバ、小屋梁には松丸太を用い、他に能登ヒバ、赤杉など(石川)県産物を用いている。使用した木材5,330石の7割にあたる3,830石が県産物。


三十間長屋。



鶴丸倉庫。



石川門。


金沢城を充分に堪能(金沢城の敷地の広さを充分に味わったよ)した後、ちょうどお腹も空いてきたのでお昼を食べに行きました

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2011年 S2000ぶらり旅「信州&北陸/金沢市 尾山神社 編」

2011年05月02日 | 周遊紀行 / 北陸地方
2011年 5月 2日(月)
尾山神社へ行きました

(Wikipediaより)
尾山神社(おやまじんじゃ)は、石川県金沢市に所在する神社。慶長4年(1599年)前田利家が没すると前田利長は、その霊を祀ろうとしたが、公然と祀るには憚るところがあったので、越中国射水郡の式内社物部神社(現 富山県高岡市東海老坂)に併祀されていた八幡神を勧請して金沢城の東に卯辰八幡社を建て、ここに合祀した。この神社は、幕末になると藩の財政が乏しくなり荒廃が目立つようになった。明治時代になって、1872年(明治5年)に教部省出仕加藤里路(元金沢藩の権大属・宣教掛で、のちに尾山神社の社司。)と石川県参事桐山純孝が新たに藩祖を祀る神社を建てる計画をする。旧藩臣が集まり前田土佐守家の前田直信が代表になり明治6年金沢城の金谷出丸の跡地に新たに建立することとなった。元の卯辰八幡社は、明治11年、宇多須神社となっている。1873年(明治6年)3月に政府より神社創立許可が出て、同月14日に創建し、社号を尾山神社とした。同月30日に、明治4年7月卯辰山天神社に一時的に遷座していた神像を尾山神社に遷座した。11月16日にはときの県令内田政風を始めとする官吏が参列して、卯辰山八幡宮より神霊遷座が行なわれた。当初、社格は郷社に列格され、翌年に県社に昇格する。1873年(明治6年)11月には前田家当主前田斉泰の子の少教正・大聖寺藩知事前田利鬯(としか)が説教を行なっている。次々と境内施設が整えられていくなか、1875年(明治8年)11月に特徴的な神門が造立されることとなる。この神門はオランダ人ホルトマンの設計によるもので、長谷川準也・大塚志良の兄弟により1874年(明治7年)8月に計画され、津田吉之助によって建てられた。日本で最初の避雷針を建立時より備えている。1879年(明治12年)7月には前田利長・前田利常が相殿に祀られる。同年9月には歴代藩主を祀る境内摂社として金谷神社が創建される。1874年(明治7年)3月に石川県中教院が設置された。同年5月1日には中教院神殿の祭神4柱(造化三神・天照大神)の鎮座式が前田利鬯を祭主として県令・県下神職僧侶参列の上で行なわれた。1902年(明治35年)4月26日、長年の昇格請願運動が実り、米沢の上杉神社と同時に別格官幣社に昇格している。7月3日-5日には昇格慶賀祭が行なわれた。

神門(国の重要文化財)。
 
本殿。

本殿では同行人が手を合わせて拝んでいたので
その隣でボクも・・・
「隣の方が、お松の方みたいに穏やかな女性に・・・」改め
「ボクも前田利家公の様に立派に精進できますようにっ!」とお願いしました

前田利家公と
 
お松の方。

大河ドラマ「利家とまつ」の放送に際して建てられたみたい。
意外と新しいモノだったので、まだ歴史を感じる事が出来ずにチョット残念でした。
でも境内の菊桜は綺麗に咲いていました。

「利家とまつ」の様にいつまでも二人三脚で歩めます様に・・・と二人の像に願いを込めて神社を後にしました

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2011年 S2000ぶらり旅「信州&北陸/金沢市 にし茶屋街 編」

2011年05月02日 | 周遊紀行 / 北陸地方
2011年 5月 2日(月)
妙立寺の見学を終えてから、徒歩でにし茶屋街へ向かいました


(パンフレットより)加賀藩12代藩主 前田斉広は、文政3年(1820)金沢町奉行 山崎頼母らの口添えにより、公許を与えて妓桜を区域を限定して集め、石坂茶屋町が出来上がり営業が開始された。しかし天保2年(1831)には茶屋制度が廃止され、さらに慶応3年(1864)9月に再び公許されるなど、幾多の変遷をたどりながら、100有余年の歴史と伝統の面影を今に伝えている。
茶屋町は上町(現にし茶屋街)と下町に分かれ、上町は金沢での紳士の社交場としての役割を果たし、数多くの名妓を生んでその伝統と格式は現在でも受け継がれている。
茶屋街の入口にはかつて大門があり、番所が置かれて茶屋街の象徴でもあったが今は無い。茶屋街の建造物の特徴は、格子作りと街行灯であるが、特に金沢の格子は桟(さん)が細くて間隔が狭いのが京都の島原や江戸の吉原と異なる点で、以前は紅殻の漆で塗られていた。




「甘納豆かわむら」
金沢市野町2丁目24-7
Tel.076-244-0042
人気店らしく、朝から混んでいました。
ここの甘納豆はしつこい甘みも無く、品のある口当たりで絶品でした


「飴の俵屋」
金沢市長町2-2-37
Tel.076-231-3378
ここも人気店!手作りの飴(水飴)が美味しかった


長町武家屋敷跡へ向かいました
野村家跡。



高田家跡。


綺麗に手入れされている庭園と文化財。
保存している子孫の方々のご苦労が伝わって来ます。
ほとんどの場所が無料で公開されていました。感謝です。

色んなお店で買い物して沢山の荷物を持たされたまま(笑)
尾山神社へ向かいました

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2011年 S2000ぶらり旅「信州&北陸/金沢市 妙立寺 編」

2011年05月02日 | 周遊紀行 / 北陸地方
2011年 5月 2日(月)
この日は一日中、金沢市を観光しました。 
S2000はホテルの駐車場に預けっぱなしで徒歩や公共の乗り物で移動しました。

ホテルを出て、タクシーに乗り込み
まず向かったのが妙立寺(みょうりゅうじ)です。
ここは観光するのに予約が必要なお寺で、事前に同行人が手配しておいてくれました。
色んな「からくり」を持つお寺として有名な場所ですので楽しみにしてました。

妙立寺のパンフレットより
「日蓮宗、正久山・妙立寺は、加賀三代藩主の前田利常公が、寛永20年(西暦1643年)金沢城近くから移築建立した。徳川幕府が名実ともに日本全国を統一するため、ささいなことを理由に、多くの諸大名を取り潰したころである。利常公は徳川家から嫁を迎え、母親を人質に出し、鼻毛を伸ばして馬鹿殿様を演じ、謀反などとんでもないと幕府を安心さっせる。その一方で、多くの武士が起居できる寺院群を、現在の寺町に新築した。その中心に監視所の役割を持つ当山・妙立寺を建立したのである。見上げるような屋根、望桜、多くの隠し階段、切腹の間など、様々の仕掛けがあるので「忍者寺」とも呼ばれている。今も現存する当山は、初代藩主・利家公が金沢に入城して間もないころに、政治の理念を日蓮宗・法華経の中道精神に求めて建立した「祈願所」だったものを、利常公の知略で移築されている。結局、戦火にあわず、風雪に耐え、加賀百万石の繁栄とともに歴代の加賀藩主は「祈願所」として崇め、武運長久を祈り、家紋「剣梅鉢」をまもってきたのである。」

「(四階七層二十九階段、複雑な仕掛け 加賀藩の秘策)
複雑な建築構造をもつ正久山・妙立寺。人呼んで「忍者寺」の建立当時は、幕命で三階建て以上の建築は禁止されていた。しかし当山は、外観は二階建てだが、内部は四階建て七層にもなっている。しかも、その構造は、きわめて頑強で、台風や風害などに充分耐えられる配慮がなされている。中二階、中々二階など複雑な構造の中に、部屋数が二十三、階段数が二十九もあり、最上階の物見台ともとれる望桜は各方面を遠望でき、金沢城への逃げ道といわれる大井戸など、出城としての要素を多く秘めている。また、忍者寺といわれる仕掛けも散在する。しかし、忍者の寺として建立したのではなく、幕府からの公儀隠密や外敵の目をあざむくために装備されたもので、堂内のあちこちは迷路のようになっているのである。類のない建物である。」


見学は完全予約制。
到着後、本堂に通されて見学に際しての説明と
パンフレットにも書かれている妙立寺の歴史についてのお話がありました。
見学者をいくつかのグループに分けて、ガイドの人が付いて順番に見て行きました。
当たり前ですが、館内は撮影禁止。
外からしか撮影が出来ませんでした。

正面入口。







物見台・望桜
(パンフレットより)妙立寺の特徴的なもの。本堂の屋根の突っ端部分にあるギヤマン(現在はガラス)張りの望桜で見張り台になっていた。金沢城へは光による通信も可能で、寺町台はもとより、遠く加賀平野を遠望、敵の動きをいち早く知ることができた。

明かり取り階段。
(パンフレットより)正面から突き当たりにある。蹴込(けこみ)の所に障子を張って明かりを取り、外敵の足の影を見て槍などで刺し倒すことができる。

裏口。


100万石を誇る加賀藩でも徳川幕府に対してどれだけの脅威を感じていたことか・・・。
この妙立寺を見ていると、その脅威も伝わってくる様でした。
先人達の並々ならぬ工夫と知恵が凝縮されていて
ガイドの説明を聞く度に感心させられっぱなしでした。

2011年 ぶらり旅「信州&北陸/総括 編」

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INDYCAR SERIES 第4戦サンパウロ(in金沢)

2011年05月02日 | レース観戦記
5/1の深夜というか5/2の午前1時から
宿泊していた金沢市内のホテルで
見ました(見る事ができました。左下に邪魔なオマケが入ってたけど)。。。

解説には5/1にFSWでSGTを走って来たばかり
「寝てません!」と言ってた武藤選手と松浦選手。


決勝レースが始まるまで
今年の第1~3戦のダイジェストや
サンパウロの過去のレースの話など





色んな話題が出て、とても楽しそうでしたが
ボクの記憶はココまで
レースが始まる前に、いつの間にか寝てしまいました

あとでiPhoneで結果を知って
琢磨選手の奮闘を見逃した事に後悔した事は、言うまでもありません

この調子で行けば
9月のインディ・ジャパンも楽しみですね

次の日も同じホテルだったので
SGTの決勝レースを放送したのですが
旅の疲れに勝てず、寝てしまい
翌朝に朝食を食べながら同行人にレース結果を教えてもらいました。

どうやら夜更かしできない体質になりつつあるらしい?

レースの結果/HONDAのホームページ
インディカー・シリーズ第4戦サンパウロ

Pray for JAPAN
2011年 ぶらり旅「信州&北陸/総括 編」


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