遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『日本宗教のクセ』 内田樹 × 釈徹宗  ミシマ社

2024-01-10 13:37:31 | 内田樹 X 釋徹宗
 本書は対談集である。この共著者の対談集は、最初に『現代霊性論』を読み、その後、『聖地巡礼』の3シリーズ;<ビギニング>、<リターンズ>、<ライジング>を読み継いできた。
 新聞広告で本書を知り、そのタイトルと対談集ということに関心を抱き読んでみた。
 本書は2023年8月に単行本が刊行されている。

 くせ[癖]という言葉を辞書で引くと、「①その人がいつもそうする習慣的動作や、行動の個人的な傾向(のうちで、好ましくないと受け取られるもの)②曲がったり折れたりなどして、直そうとしてもなかなか直らない状態。③[洋裁で]からだの形に合うように整えたふくらみやへこみ」(『新明解国語辞典 第5版』三省堂)と説明されている。
 一般的には「くせ」という言葉から連想するのは、第一羲、第二義の説明にある意味合いでのネガティヴなイメージが強いと思う。この語感をもっているので、「日本宗教のクセ」というタイトルを見たときに、日本宗教のネガティヴな側面について、談論風発するのかなと思った。
 読んでみて、そうではないな、が第一印象である。本書では「クセ」という言葉を特徴、特性という意味や特異性、差異性という意味を包括させた形で使用し、「クセ」をニュートラルな形で使っていると思う。ざっくり言えば、日本には日本の宗教の実態があり、それをまずは受け止めることから始めようではないかというスタンスのもとで対談が行われている。
 対談集なので、当初の設定テーマから、様々な論点が語り出され、談論風発の結果、話材はどんどん広がって行く。発想の広がりと論点の提示がなされ、それなりの説明が加えられて行く。ただし、論文ではないので厳密な論証とは縁がない。逆に、自由な対談の話材がシフトしていくおもしろみはふんだんにある。日本の宗教に関心のある人には、考える材料に溢れた対談集といえる。

 「まえがき」(釈撤宗)によると、ミシマ社のオンラインイベントという企画のもとで、通算5回のトークライブをもとに本書ができた。各回のテーマは釈撤宗さんが設定し、内田樹さんとは全くの打ち合わせなしでのぶっつけ本番トークのまとめであるという。
 本書は、トークライブの中での両者の合意点も相違点も話の流れの中でそのままに留められている内容である。つまり、読者にとっては、上記につながるが、思考材料と知的刺激を得られる本なのだ。

 この対談集、内田樹著『日本習合論』、釈徹宗著『天才富永仲基』が発刊された直後の時期からトークライブが始まったという(両書は未読)。本書の構成は以下のとおり。
 第一章 日本宗教のクセを考える
 第二章 夕日の習合論
 第三章 お墓の習合論
 第四章 今こそ、政教分離を考える
 第五章 戦後日本の宗教のクセ
章の見出しのネーミングにその点が反映しているのかもしれない。テーマ設定の広がり方もまた興味深いではないか。

 第一章の冒頭で、釈さん(以下敬称略)が、日本宗教文化が「習合」を得意技とし、一つのスタイルになった点を認めつつ、習合しない方向の流れを説明するこから始める。浄土真宗と日蓮宗の不受布施派を習合しない方向の例に採りあげる。すると、内田さん(以下敬称略)が、一般性がない定義だがと言いつつ「習合」とは「土着のものから創造的なエネルギーを引き出す」(p14)ことだと言う。この創造的なエネルギー、「大地の霊」を引き出しうる人々の登場により、「初めて日本列島に宗教らしい宗教が現れた」(p14)のだとした上で、習合しない方向という釈所見については、「鎌倉仏教はもうそれ以上習合する必要がなかったということになる。すでに土着のものとつながっていたのですから」(p14)と返している。冒頭からおもしろいやりとりが展開していく。
 そして、内田は「足裏から大地のエネルギーを吸い上げるような回路を持っていることと、外来のかちっとした整合的な体系が結びつかないと、日本の場合、どんな文化領域でも豊穣なものは生まれてこない。・・・・日本列島の大地に根を張っているものであれば、何とくっついてもかまわない」(p16)と論じている。おもしろい。

 第一章のライブトークで出された論点を要約しご紹介する。関連ページを表示する。
*日本の場合、山とか半島が神仏習合を生み出す場となった。 釈 p21
   ⇒習合は聖地(パワー・スポット)が足場になる、 内田の付言  p22
*習合には絶対に譲れない原理原則はない。だから、議論にはならない。 内田 p29
*日本の宗教は、近いものほど違いを強調したがる。一方、違う宗教との同じところを強調したがるという習性がある。  釈 p30
*日本には「習合信仰(シンクレシティズム)」がある。  ⇒神仏習合  釈 p40
*強い原理原則を避ける傾向がある。   釈 p40
*日本の宗教の特徴は、「行(ギョウ)を重んじる。  内田 p40
*聖地巡礼は必ず観光とセットになっている。厳しい行の後には、「直会(ナオライ)」が必ずある。 ⇒宗教的な緊張を保ったまま、現実世界に戻るとうまく順応できない。
      日本の宗教には世俗化への技術がある    内田  p41
*日本の「行」は、内面重視じゃなくて、行為先行である。  釈  p42
  ⇒淡々とした「行」の実行→心身の宗教的成熟→霊的感受性の深化→世界の捉え方
   が宗教的になってゆく   内田の付言  p43
*聖徳太子信仰は古代から現代まで連続して存在する。しかし、聖徳太子その人に対する評価と信仰形態は様々に変化。時代や社会がそこに投影されている。  釈 p44-47
*神道では「人並外れた存在は神として祀る」という形態がある。  釈 p48
*日本の宗教の一番根っこにあるのは「天皇制」である。    内田 p50

 このような論点が第1回のライブトークで話し合われていた。コロナ流行の中でのマスク着用に話が飛び、そこに潜む「二項対立のワナ」という問題への警鐘に波及して対談は終わる。対談という場での流れのなせるところか。まあ、そこがおもしろさでもあると言える。
 こんな調子で各回の対談録である第二章以降も、テーマは起点であり、論点は広がって行く。後はまあ、本書を開いてみていただくとよい。
 読みながら、まずは一杯付箋を貼る状況になってしまった。

 ご一読ありがとうございます。


こちらもお読みいただけるとうれしいです。
「遊心逍遙記」に掲載した<内田樹×釈徹宗>作品の読後印象記一覧 最終版
                   2022年12月現在 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『虚ろな十字架』  東野圭... | トップ | 『脈動』  今野 敏   ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

内田樹 X 釋徹宗」カテゴリの最新記事