遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『天を測る』  今野敏   講談社

2024-06-18 16:52:04 | 今野敏
 著者の作品群を長年愛読してきている。本書の出版広告を見た記憶がなく、たまたま地元の図書館で目にとまった。史実が残る人物を主人公にし、本格的な歴史時代小説の領域で著者が小説を書いていたとは知らなかった。
 著者の作品を読みついできた範囲では、時代小説的なのは、サーベル警視庁シリーズくらいの気がする。

 奥書を見ると、初出は「小説現代」2020年11月号で、同年12月に単行本が刊行されている。

 史実の人物と上記したが、私は本作を読むまで主人公の小野友五郎という逸材が存在したことを知らなかった。幕末・明治の時代の転換期について、また1つ新たな視点を知った。そこには「テクノクラート」が存在したということ。歴史年表に名を連ねる一群の人々の背景に、彼らと時代を支える立場のテクノクラートたちが活躍していたという視点である。
 著者は、末尾の「参考文献」で、藤井哲博著『咸臨丸航海長 小野友五郎の生涯 -- 幕末明治のテクノクラート』を参考にしたと述べ、この文献を参考にして初めてこの小説が完成したと記している。

 小野友五郎は、笠間牧野家家臣であり、江戸幕府が創設した長崎海軍伝習所の一期生として学んだ。伝習所以来、艦船での経験を積んでいる。友五郎の得意とした領域は算術であり、観測と計算だった。
 安政7年(1860)1月、江戸幕府外国奉行新見豊前守正興が、日米修好通商条約の批准書交換を目的に、米国艦のポーハタン号に乗船して、アメリカに出向く。小栗豊後守忠順が遣米使節目付として乗船し同行する。
 この時、咸臨丸が随伴艦となり、アメリカに赴いた。小野友五郎は咸臨丸の測量方兼運用方となる。上記の参考文献で言えば、航海長。測量方として、長崎海軍伝習所での後輩である松岡磐吉、赤松大三郎、伴鉄太郎がクルーとなる。また蒸気方(今で言う機関長)として肥田浜五郎が加わる。中浜万次郎(通称、ジョン・万次郎)が遣米使節通弁として乗船。友五郎と万次郎の親交はこの航海時に深まったようだ。
 
 本作は、まず咸臨丸の米国往還と米国滞在中の状況描写から始まっていく。咸臨丸の名前と太平洋航海達成は史実として学んではいた、しかし、その状況は本作を読み、初めてイメージできるようになった。アメリカの海軍士官や航海士等が太平洋横断の往路に乗船していたことを初めて知った。事実をベースにフィクションが組み込まれているとはいえ、咸臨丸の状況がリアルに感じられておもしろい。往路、アメリカ側と日本側がそれぞれの天体測量の結果をオープンに開示する測量合戦をしたそうだ。
 この時の咸臨丸の船長は勝海舟。勝は船に弱いというのを以前にどこかで読んだことがある。本作には、咸臨丸渡航以外にも各所で勝海舟が登場する。多少カリカチュアな描写が含まれているかもしれないが、勝海舟の自己顕示欲的な側面が描かれていて興味をそそる。
 咸臨丸の友五郎らクルーは、サンフランシスコ滞在中、港北端のメーア島海軍造船所に用意された宿舎に滞在したという。そこを拠点に何をしたのか。
 友五郎らは、長崎伝習所でオランダの造船技術を学んでいた。友五郎は、日本が自力で蒸気軍艦を造る同等の力はあると確信していて、その上でアメリカの造船技術情報を収集するということに専念したようだ。勿論、造船所の公式の見学許可を取ったうえである。当時は技術情報の開示は大らかだったことが感じられる。産業スパイ的な発想と警戒心はなかったのだろう。彼我の歴然とした技術力格差という見方、偏見、蔑みが根っ子にあったのだと感じる。そういう時代だったのだろう。友五郎らの行動の描写が彼らの問題意識を鮮やかにしている。

 軍艦奉行木村摂津守喜毅と共に彼の従者という名目で福沢諭吉が咸臨丸に乗船して渡米した。このストーリーではこれを機会に、友五郎と福沢との関わりもできていく。西欧信奉派の立場の福沢と日本の技術力を確信する友五郎とのメーア島での会話が、日本VS西欧の代理対話のように描き込まれるところもおもしろい。

 咸臨丸は帰路にもう1つの任務を持っていたことを本作で初めて知った。無人島の調査。現在の小笠原諸島と称する島々の位置確定と測量である。日本の領土と宣言するための基礎固めという任務。これは咸臨丸の汽罐の蒸気漏れによる出力低下と悪化の懸念から断念され、帰国が優先されたようだ。後に咸臨丸が行う次の仕事になる。
 小笠原諸島の島を拠点に、万次郎が捕鯨をするという夢を抱いていたことも知った。

 咸臨丸での航海を契機に、木村摂津守は友五郎の能力と人柄を大いに評価する。木村摂津守が、幕末の幕府老中の中核で、開国を前提にして欧米の武力干渉に対抗するための政治的な舵取りをする人々と、友五郎とのリンキング・ポイントになっていく。咸臨丸での航海の後、友五郎は幕末の動乱の渦中でテクノクラートとして己の能力を発揮していく。そういう場を与え続けられる。咸臨丸渡航譚は、いわば本作の第一部のようなものである。

 江戸幕府の政事を司るトップの意思を受けて、友五郎がどのような事項に関与して行くことになるのか。それがこのストーリーであり、小野友五郎という逸材の半生を描いていく伝記風小説の側面を持っている。その反面で、テクノクラートの視点から眺めると、幕末期における幕府開国派と尊皇攘夷派との併存と時代の流れが見えてくる。何のための国内戦だったのか。あらためて幕末の動乱期は不可思議な時代だと感じる。

 友五郎がどのような人生を送るかは、本作をお楽しみ頂くとして、友五郎がテクノクラートとして、何に関わり主導的な役割を担う立場に投げこまれたかだけ、時系列的に列挙しておこう。咸臨丸での渡航の後のことである。
 もう一点、先に触れておく必要がある。それは友五郎が抜擢されて、笠間牧野家家臣から、幕臣・旗本に身分が転身するということである。旗本の立場で仕事が始まっていく。勿論、友五郎はもとから日本という視点を思考の中核にしているのだが・・・・。

 *蒸気軍艦建造の建言書の作成と提出 ⇒ 正確な縮尺模型の製作、軍艦建造へ
 *江戸湾の総合的な海防計画 ⇒ 江戸湾測量、砲台位置決定への準備、復命書提出
               ⇒ 『江都海防真論』七巻の完成と建言 ⇒ 実務へ
 *製鉄所付き造船所建設地の選定
 *咸臨丸による小笠原諸島の測量、硫黄島周辺の地形観察
 *公儀の会計事務全般の改革
 *貨幣改革
 *毛利家討伐のための動員計画策定の責任者 第一次、第二次ともに
 *軍艦とその他軍備調達のための渡米
 *兵庫開港の準備

幕臣として上記の様々な課題に携わった友五郎は、明治維新後、民部省への出仕を要請される。54歳のときだそうである。鉄道の測量。たちまち、技師長となり、測量に関わるすべての事柄を掌握していく。
 小野友五郎。テクノクラートとしての役割を担ったすごい逸材が居たのだ!
 違った目で、幕末・明治初期と人物群像をみつめることができる小説である。

 「軍艦とその他軍備調達のための渡米」の課題の遂行プロセスで福沢諭吉が渡米の一員になっていたそうだ。この時の福沢のエピソードが描き込まれている。福沢のいわば身勝手な行動の一側面である。幕末のどさくさでどうも結末はあやふやになったような読後印象をうける。これはネガティブ・エピソードなので、事実を踏まえているのだろうと思う。こんな側面もあったのか・・・と感じる。勝海舟も含め、やはり人は多面的なものの総体なのだと思う。

 最後に、友五郎の発言として記され、印象に残る一文を引用しご紹介しておこう。
*己にないものを自覚し、他者のよさを認めて足し算をしていく。品格というのは、そうして育っていくものでしょう。引き算ばかり考えている連中には、品格が備わることはありません。   p276

*どんなことになろうと、我々は公儀のため、日本のために働かなくてはなりません。
 私はそれに全力を尽くします。     p277

*その理屈は通りません。ご公儀の金で買ったものはご公儀のものです。  p301

*我々は、諸外国に負けない海軍力を培うために、苦労に苦労を重ねて横須賀造船所を造りました。ご公儀とか、薩摩とか、長州とかいう問題ではありません。日本の未来のために、日本人が使うのです。破壊してはいけません。  p313

 それと、元軍艦奉行で、後に勘定奉行として江戸城明け渡しの事務処理を行った木村喜毅が明治維新後に、友五郎を訪れて対話する場面での発言も、印象深い。
*政府は底が浅いので・・・・。公儀で実務を担当していた私から見ると、今の政府は張りぼてです。
 政府の要職に就いた薩摩・長州の連中は。残念ながら、まるで力がない。結局、かつての旗本や大名が実務を担うしかないのです。  p330-331

 ご一読ありがとうございます。


補遺
笠間が生んだ科学技術者 小野友五郎  :「笠間市」 
小野友五郎  :「千葉県富津市」
常陸の国が生んだ幕末明治のテクノクラート 小野友五郎を伝えてゆく会ホームページ
小野友五郎物語  YouTube
福沢諭吉は公金一万五千ドルを横領したか? :「blechmusik.xii.jp」
咸臨丸      :ウィキペディア
咸臨丸の歴史   :「木古内町観光協会」

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「遊心逍遙記」に掲載した<今野敏>作品の読後印象記一覧 最終版
                      2022年12月現在 97冊


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