12年前の東日本大震災の時
我が家は大学生・予備校生・高校生・中学生の
金食い虫を抱えており1円も寄付できなかった
ならば、ボランティアと思いましたが
父ちゃんに
「おめぇみたいなやつが被災地に行ったら
邪魔なだけだ!家でじっとしていろ」と言われ
なにもできずにじっとしているしかありませんでした
以来、なんだか罪悪感というのか
後ろめたいと言うのか
自分は三陸に行ってはいけない・・・って思ってました
今年、あの震災から12年がたち干支もひとまわりしました
今年も3・11には復興の進む被災地の様子がテレビで放送されてました
そんな被災地の方々が
「復興も進み、工事をしてくださっていた方々もだんだん少なくなり
人が少なくなっています。ぜひ、被災地に来てください」
って、言ってたのよ
これって、私も行っていいかねぇ~~
4人の子供達も自立して、学費の心配も無くなった
多額の寄付は相変わらずできんけど
被災地で海鮮丼食べたり、お土産買ったりする小銭は
出来た・・・
行ってもいいかなぁ~~って
思っていた矢先に
超~~久しぶりに花子からラインが来た
子供達もげんきんなもので
学生時代は頻繁に連絡してきたのに
社会人になると、途端に連絡が少なくなります
「お彼岸のあたり連休取れるけど、遊ぶ~~
仙台に行って、牛タン食べて、松島で遊覧船にでも乗ろう~~」
って、お誘いでした
仙台も、松島も行ったことあるし
これからも行く機会もありそうな気がしたので
三陸の旅をしませんかって
誘ってみた
「仙台よりずいぶん遠いよ~~」と
言いつつも、行くことに決定・・・
震災遺構って言っても
各自治体でたくさん残してくれているので
全部行くわけにはいかず、今回は
1 陸前高田市
2 気仙沼市
3 南三陸市
4 石巻市をまわることにしました
8:20 いわき市を出発
常磐道・三陸道を走り、途中2か所ほどの休憩をして
12:20 高田松原津波復興祈念公園に着きました
目の前は海ですが、高い高い防潮堤ができていて
ここからは海は見えません
12・5メートルの防潮堤に登ると
たくさんの松が植樹されておりその先に海を見ることが
出来ます
海を背に街の方を見ると、かつてはあったであろう家々の後は
追悼の広場になっております
かつての家々は高台に移転しています
奇跡の1本松
高田松原7万本の松の中で1本だけ生き残った
復興のシンボル・・・
震災後1年で塩水により枯れてしまったそうですが
鉄柱を入れて現状の形で残されていました
旧道の駅
正面から
裏から
1番高い所まで避難できた3名が流されなかった
陸前高田市気仙中学校
津波はこの中学校の屋上まで・・・
生徒は全員避難1名も犠牲者なし
陸前高田市って
サムライジャパンの佐々木投手の出身地です
当時はまだ、小学生だったようなので
この中学校には通っていなかったと思いますが
この少し上に小学校がありました
佐々木投手は中学生のうちから140キロの早いボールが投げられたようで
全国の高校からスカウトがあり
もちろん、県内の大谷投手の母校
花巻東高校からのお誘いもあったようですが
地元の仲間と一緒に野球がしたいと
地元高校へ進学したそうです
佐々木投手もこの陸前高田の人々の
復興のシンボルになっているのだと思いました
東日本大震災伝承館
事実を知り、教訓を学び、復興を共に進めるというテーマで
展示物やシアターがありました
1日目はここまで!
宿を予約していなかったので
宿探し・・・
私は民宿に泊まってみたかったけど
民宿2~3あたりましたが
すべて満室・・・
花子がチャチャとネット検索
気仙沼に安宿見つけてくれました
若者はなんでも早い・・・
港、目の前で安い割には部屋も広くなかなか
良いホテルでした
この港は震災時、流れ出したコンテナの重油に火が付き
火の海になった所だと思います
2日目
9:10にホテルを出て
9:50 気仙沼市震災遺構伝承館
こちらは向陽高校と言う高校の
校舎がそのまま、
遺構として残されていました
会議室
保健室
3階部分に流されて来た自動車
屋上からは、屋根が流されてしまった
体育館が・・・
校舎と校舎の間に流されて来た
折り重なる車
屋上から見えたこの小さな高台
海のすぐ近く
近くまで行ってみるとこの高さ
5メートルくらいかなぁ〜
明治時代に来た三陸沖地震の津波は
ここまでだった
ここにいれば大丈夫と97名の方がここに避難
流されたそうです
ここの石碑には、
より高く、より遠くへ
と刻まれていました、
12:10 南三陸町震災復興祈念公園
防災対策庁舎
この庁舎の前に役場があったようです
震災前の町並みが模型で展示されていました
防災対策庁舎の位置がよくわかりました
震災遺構で残されている庁舎の周りは
10メートル以上も盛り土がされており
今は、見下ろす形になっていました
遠くに駅が見えます
多くの鉄道も流され、気仙沼は以前の鉄道が走っていた線路跡を
JRのバスが運行されているようです
南三陸にも綺麗な3・11メモリアルという
建物が建っていて展示ギャラリーやらシアターやら
あったのですが、
どうしても、もう1か所行きたい遺構があったので
中には入らずに
次の目的地に向かいました
海岸沿いを車で走っていても、
どこもかしこも、高い防波堤があり、
まったく海を見ることができません
小さな入り江にも防波堤です
震災前はさぞかし景色の美しい所だったのだろうなぁ~~と
思われますが
命を守る防波堤なんですよね
地元の方の心情はいかばかりかと・・・
最後に訪ねた遺構は石巻市の大川小学校です
震災直後から、テレビで見て来ました
どうして、どうしてと言う思いから
一度、この地に立ってみたいと
思いました
裏山に登ってみました。
私の足でここから5分
校庭からゆっくり歩いて来たとしても
10分で・・・
学校を見下ろせる高さまで
来ることができました
あの日
51分もの間この校庭に
整列し避難の指示を待っていた
子供達の事を、思うとなんとも
胸が詰まります
学校の近くに、大川震災伝承館という建物があり
あの日を伝える様々な展示がありました
前頭葉、壊れてる私が言っていい事と
いけないことの判断がつかずに
心で思っていることを
大きな声でペラペラとしゃべらないように
花子が、釘を刺します
「お母さん、ここでは何もしゃべらないで・・・
だまっていて・・・」って
はいはい、わかってます
しゃべりませんって
誓いましたわ
そしたらね、
私みたいに、前頭葉いかれてるおじさんが
伝承館の展示を見ながら
大きな声で言ってたわ
「ここは、一人も死なずに済んだところだなぁ~~」って・・・
伝承館で小冊子いただいてきました
震災当日の様子
生き残った教員と校長先生のメールでのやりとりが
削除されていた事実
生き残った教員と4人の児童から聞き取りをした
書類が破棄されていた事
第三者委員会の納得のいかない最終報告書
遺族と市・県との裁判の様子など
詳しく書かれていました
大川小学校のことは知っていたように思っていましたが
知らないことだらけでした
今回の母娘旅は
ちょっと、重たい旅でしたが
行って良かったと思います
ここから、私に出来ることは
なんなの
被災地のいろいろなことを知ることで
教えてもらったことで
自分に出来る備えを
すると言う事ですかね
我が家・・・
家具の固定してません
水の備蓄も
食料品の備蓄もしてません
南海トラフ地震30年以内に80%くらいの
確率でやってくるんでしょう
群馬県は津波の心配はないにしても
物流は途絶えますわ
備えあれば憂いなし・・・
備えておかなくてわ
今回の旅をただの観光にしては
ダメよね
気仙沼震災遺構伝承館のシアターで流れていた
卒業式の答辞がYouTubeでも見ることができたので
貼り付けます
伝承館では答辞の全文を聞くことができました
天を恨まず、運命に耐え・・・ってねぇ~~
東日本大震災の10日後 卒業式での答辞【答辞全文は概要欄】