うさぎとかえるの里

鳥獣戯画をこよなく愛する自分の日本文化や日常に関する想いをつづります。

瑞泉寺。

2017-11-29 16:26:39 | 旅行・参拝


最後は瑞泉寺。

錦屏山瑞泉寺だけあって、紅葉の見事な岩山の間にあります。

鎌倉末期、夢窓疎石の創建。

何度か来ていますが、秋は初めてかな?



とにかく自然豊か!



石段の上が山門で、開けたところにお庭とお堂。





ここは鎌倉石の岩盤を掘った岩のお庭が見所です。







ちなみに吉田松陰の伯父さんが住職を務めたこともあり、そこを訪れた時に松陰が浦賀で黒船を見て、密航を企てるというエピソードにつながるんですね。

松陰はかなり日本を歩き回っていますが、なんとなく知っていた話がつながっていくのも史跡探訪の面白さです。
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護良親王墓。

2017-11-29 10:40:37 | 旅行・参拝


今回一番やりたかったこと。

護良親王のお墓参りです。

7年前に鎌倉宮に来た時は準備不足でお墓には行けなかったので…。

さて、護良親王のお墓は今は廃寺となった理智光寺にありました。

淵辺義弘は護良親王の首が淵辺の剣の先を噛んで折り、その刃先を口に含んだままだったのに恐れをなし(中国の故事に、口内に刃物の切っ先を含んだ恨みを残した首が献上された際、その首が帝に向かって切っ先を放ったというものがある為)、護良親王の首級を捨てて(ひどい)逃げ出してしまうのです。

その首を拾ったのが理智光寺の僧侶で、手厚く葬りました。
(一説には、親王の世話係として鎌倉まで付いてきていた女性が寺に持ち込んだとも)

現在は寺はありませんが、石段は明治二年の鎌倉宮造営の際に整備され、今も宮内庁の管轄下にあります。

まぁ、しかし瑞泉寺に向かう道の途中から脇道に入ってすぐの場所ですが、紅葉見物で賑わう当日もこちらには誰ひとり来ませんでしたね…。

というわけでものすごい静寂。

木の葉が下の草むらに落ちる音まで聞こえるほど。



山へと続く、落ち葉の積もった長い石段を上ります。

この感じ、なんか既視感…と思ったら、京都阿弥陀ヶ峰の豊臣秀吉さんのお墓参りをした時もこんなでしたね。

お墓参りで賑わっていたのは霊山の坂本龍馬さんと中岡慎太郎さんのお墓くらいです。

長い階段に息が切れます。
まわりではガサガサと何やら獣の気配。

鳥かなぁ?と思ったら、モモンガ!…ととっさに思いましたが、モモンガっているの?
イタチとかそんな獣が逃げていきました(;^_^A
木に登らなかったのでリスではなさそうです。

そんな獣にビビりつつ、ようやく到着。



柵の中にまだ石段があり、近くまでは行けません。

でも柵の回りには枯れてしまった花束やお酒がお供えしてあり、ちゃんとお参りに来る人もいらっしゃるようで嬉しかったです。

優しい木漏れ日の中、静かに眠っているんですね。



後醍醐天皇のお墓参りに吉野に行ったのも7年前の3月だったので、ようやくお参りできました。

二階堂川にかかる理智光寺橋の紅葉も綺麗でした。

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鎌倉宮。

2017-11-29 09:03:45 | 旅行・参拝


頼朝さんのお墓参りを済ませ、荏柄天神もお参りしてから鎌倉宮へ。

太平記ファンとしては鎌倉では欠かせない場所です。

さて、ざっと歴史のおさらい。

鎌倉宮は、後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王を祀って、東光寺跡に明治二年に明治天皇の勅命により創建されました。

大塔宮護良親王には思い入れがあるので珍しく説明風に(笑)

後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒すため、武家に対抗しようと寺社勢力を手に入れようとします。

そこで後醍醐天皇には皇子がたくさんいますが、護良親王や宗良親王を比叡山に送り込みます。

護良親王は十一歳で比叡山に入り、二十歳で天台座主(尊雲法親王)になりますが、後醍醐天皇の倒幕の動きに合わせて還俗します。

そして楠木正成と力を合わせ千早城などで闘い、それに呼応した新田義貞が鎌倉を攻めて鎌倉幕府は滅びました。

征夷大将軍になった護良親王は、足利尊氏が新たな幕府を開き、再び武家政治を行おうとしているのを警戒して、信貴山にこもり、なかなか武装を解こうとしません。

それが面白くない尊氏は、実子を次期天皇にと目論む後醍醐天皇の寵姫阿野廉子と謀り、護良親王の「尊氏追討」の令旨を「皇位簒奪」のための令旨だと後醍醐天皇をだまし、まんまとだまされた後醍醐天皇は護良親王を捕らえさせ、鎌倉へと送り、東光寺の土牢に幽閉してしまうのです。

父帝のために闘ってきたのに…(泣)

そして歴史的にはまんまと尊氏が征夷大将軍になり幕府を開き、北朝天皇を立てたため、後醍醐天皇は吉野で無念の中に亡くなってしまうのです。

それはさておき、1334年11月から中先代の乱の起こる翌年7月まで、土牢に9ヶ月も幽閉された護良親王は足が萎えて立つことも出来なくなったといいます。

中先代の乱とは、北条高時(鎌倉幕府最後の執権)の遺児時行が起こした反乱で、鎌倉が敗れると尊氏の弟足利直義は敗走する際に家臣の淵辺義弘に命じて護良親王を暗殺してしまいます。
護良親王、御年二十八歳でした…。

そんな直義も、のちに兄尊氏と対立し(正確には執事の高師直、師泰)、それが観応の擾乱(今、流行ってますね~)となって尊氏に毒殺されるのですから、本当に悲しい歴史です。

そんな事を思い出しながらの鎌倉宮はまことに感慨深い!

村上社には、吉野の闘いで護良親王の身代わりになって凄絶な討死をした村上義光の身代わり像が。
参拝者に撫でられてつるつるになっていますが、顔は優し気ですね(^^)



吉野の金峰山寺の前に護良親王の陣の跡が残っていますが、あの時の闘いですね。

そして300円の拝観料を収めて、土牢と宝物殿へ。



土牢は暗くて入り口付近しか見えませんが八畳ほどの広さがあるそう。
まさにここが暗殺現場なのね…(>_<)

土牢正面の紅葉がきれいに色づいていました。



宝物殿の護良親王の馬上像はとてもりりしいですよ。

気まぐれに持ち歩く御朱印帳に御朱印をいただき、鎌倉宮を後にしました。

明治天皇は維新で徳川の世が終わったのは、親王の後先徳として維新直後に祀られたそうです。
皇居には楠木正成像もありますしね。
南朝、北朝とかは既に関係ないのかな?
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源氏池。

2017-11-29 07:56:50 | 旅行・参拝




山を下りて、賑わう小町通りは避けて、段葛を横目に見ながら若宮大路を鶴岡八幡宮へ。

八幡宮へのお参りは最後にして、次の目的地に向かうため、とりあえず源氏池のほとりで遠足の小学生のお弁当タイムにまぎれつつ私もランチタイムしました(^^;)

ひとりなので品川駅で濱田屋のパンを買ってきたんですね~(笑)
弁当持参!
山に分け入る覚悟は出来てたんだなぁ(;^_^A

豚角煮パン、肉味噌蓮根パン、やはり濱田屋のおかずパンは最高っすね(*^-^*)

缶コーヒー飲んで、池のカモメと遊んでからまた歩き始めました(^^)

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