二本目の矢は「三の矢塚」より500メートル南の矢田坐久志玉比古(やたにいますくしたまひこ)神社の境内にある。さらに500メートル南には今も小字「一の矢」と呼ばれている土地があるというが、今ここは民家の中にあり、どの家かも村外の人には明かしてもらえず確認はできなかた。
なだらかな丘陵地には田植えの終わった早苗が美しい。そんな中にあって生垣で囲まれた石碑が「デン」と居座っている。言い伝えによると古代奈良の豪族物部氏の祖神が三本の矢を撃ちはなったところ、この矢田の地に落ちた。この碑は三本目の矢の落ちたところとされていて、「三の矢塚」と称されている。その昔から人々はこの土地を「宮所(みやどこ)」と呼んでいて邪馬台国がこの地にあったのではといわれている。
城下町特有の細くて曲がりくねった道は、今の時代住む人にとっては大変不自由な道であり生活環境である。今この地では町の開発が行われており道が整備されつつある。しかしそれと同時に歴史ある町並みが失われてゆくように思われる。保存と生活の場のせめぎ合い難しい問題である。部外者の勝手な意見はよそう。外堀を模した緑地の入り口にある冠木門。
大和郡山という城下町に、明治2年異教徒として捕らえられた長崎浦上の信者のうち、86人がこの地に強制送致されてきて、吉野の銀鉱等での重労働をさせられた。その後明治6年政府は「キリシタン放還令」を発表、三重県の津藩などに預けられていた人たちと共に帰国の途に着いたという歴史もあった。