《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

富雄川流域探索「そんな時代があった神仏習合」

2020年06月29日 | Weblog

伊弉諾神社は長弓寺境内にあり、本堂へ向かう東側にある。
長弓寺と同じく、聖武天皇の勅願によって、
長弓寺の守護神として建てられた。
神職は長弓寺の僧の中の第一﨟の人が継承されていると言う。
かつては仏教が主で、神道が従であった時代があった。
平安時代には神前での読経や、
神に菩薩号を付ける行為なども多くなった。
江戸時代に入ると神道の優位を説く思想が隆盛し、
明治維新に伴う神仏分離令以前の日本は、
1000年以上「神仏習合」の時代が続いてたと云う。

今日の暦:(1718)年、徳川吉宗が重ねて
中国船との密貿易を厳禁する。


富雄川流域探索「山門はどこっ」

2020年06月25日 | Weblog

真弓橋東詰め信号の東側に「真弓山 長弓寺」の石柱がある。
その向こうには大きな石の鳥居があり、参道が東へと向かっている。
真弓寺の石柱より伊弉諾神社の鳥居が大きいので、
躊躇するが、鳥居をくぐって進むと山門があり、長弓寺境内だ。
長弓寺は、聖武天皇がまだ若かりし頃、
豪族・小野真弓長弓(おののまゆみたけゆみ)と
その子であった長麿(ながまろ)とが、狩りに出かけたが、
長麿が誤って父・長弓を射殺してしまった。
聖武天皇はこのことを深く悲しみ、
僧・行基に命じてお堂を建て十一面観音を祀り長弓を弔った」と云う
一寸悲しい話がある長弓寺である。

今日の暦:明治15(1882)年、日本初の鉄道馬車が、
新橋-日本橋間に開通する。


富雄川流域探索「西を向く地蔵さん」

2020年06月06日 | Weblog

富雄川沿い東側の高台にある「融通念仏 正覚山安養寺」。
石段を登り三門入り口わきに大きな地蔵が西向きに立っている。
反対側には「不許酒肉五辛入門内」の石柱。
本堂軒丸瓦には「徳川立葵」の彫刻。
本堂は新しく地下室がある。
境内には鐘楼があり天明4(1784)年7月と新しい石柱があり、
また、敷地内には地蔵が多く集められ供養されている。

今日の暦:文化1(1804)年、
出羽の大地震で名勝・象潟(ひさがた)が隆起し、陸地となる。


富雄川流域探索「流域に架かる橋」

2020年06月04日 | Weblog

「くろんど池」を源とし、大和川に合流するまで約23㎞を
生駒市、奈良市、大和郡山市、斑鳩町、安堵町と流れる
富雄川に架かる橋は手持ちの資料には93橋とあったが、
歩行者専用の橋であったり、
橋名のプレートのない橋を含めて84橋が確認できた。

今日の暦:(1582)年、豊臣秀吉が毛利氏と講和し
明智光秀討伐(中国多返し)に出向かう。


富雄川流域探索「願うは子供の成長」

2020年06月01日 | Weblog

法楽寺。「奈良時代、東大寺大仏殿建立にあたり西北にあたる当地に
王城守護のために聖武天皇が僧・行基によって開創させたと伝えられています。
永禄10年(1567)松永氏によって大仏殿が焼き討ちされた際、
当寺も消失しましたが、鷹山氏により再興されたと伝えられています。
薬師堂は棟札銘から寛文3年(1663)に再建されたことがわかります」と
生駒市デジタルミュージアムにある。
境内には康永4(1345)年銘の十三重塔がある。
また、小絵馬が奉納されており、拝み絵馬、
子供の育成、安眠、乳搾りなどの絵馬があるが、
これらは「保存のため現在は公開していない」との事。

今日の暦:明治21(1888)年、東京天文台(気象庁の前身)がおかれる。