《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

ついでながらの今昔奈良名所「行基墓」

2018年10月31日 | Weblog

「時の政府の弾圧にも屈せずに困窮した人々を救済する、
いわば暖かい"血の通ったプロジェクト"。
プロジェクトが終われば次の集団を新しく作ると言うやり方を"知識結(ちしきゆい)"という集団。
この知識結を特徴とする行基集団は、その後の空海や最澄とは根本的な違いがあった。
行基集団は"教団"にならなかったのである。
あくまでも人々の救済を目的とするプロジェクトの実戦であって、
宗教教義を布教するための組織化ではなかった」とあった。
毎日新聞10_27夕刊"行基誕生1350年"(哲学者・桑子敏雄)より抜粋。
画像は生駒山東山麓にある竹林寺の行基墓。

今日の暦:昭和44(1969)年、アポロ11号の宇宙飛行士が文化勲章受章。


今昔奈良名所「社会事業を成し遂げた行基大僧正」

2018年10月29日 | Weblog

念仏堂の北側にある「行基堂」。
屋根形状のひとつで、
隅棟(すみむね)が中央の一点に集まり、
屋根の頂部に水平の棟を作らない形式の宝形造りの小堂。
東大寺四聖(ししょう)の一人行基の木造を安置している。
東大寺四聖とは大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、
菩提僊那(ぼだいせんな・中国よりの渡来僧)を
「四聖(ししょう)」と呼んでいる(wikipediaその他より)。

今日の暦:昭和20(1945)年、政府発行の第1回宝くじが発売される。


今昔奈良名所「夜泣きの地蔵」

2018年10月26日 | Weblog

念仏堂は鎌倉時代の建立で、伝説では摂津の遊女屋藤本権守の建立と言う。
本尊は重源(ちょうげん)上人あるいは宋人陳和卿(ちんなけい)の作と伝えられた
地蔵菩薩(鎌倉時代・重文)で地蔵堂と呼ばれた。
重源上人が藤本権守宅にあった香木製の「夜泣き地蔵」を胎内に納めたと言う。
江戸時代初期に兵火で失われた浄土堂にあった聖武天皇の護持という冠(こうぶり)の舎利や
重源上人の遺品など等が移され、念仏堂と呼ばれるようになった。
香木でつくられた地蔵で、遊女が身につけるために繰り返し小片を切り取るので泣いた
「夜泣き地蔵」といった伝説がある。

今日の暦:昭和38(1963)年、東海研究所で日本初の原子力発電に成功。


今昔奈良名所「修二会に使った籠松明」

2018年10月25日 | Weblog

二月堂西側にある開山堂は鎌倉時代の建物で国宝。
開山良弁僧正を祀る。
前庭には白毫寺の五色椿、伝香寺の武士椿と並ぶ
奈良三大椿(さんめいちん)のひとつ「糊こぼしの椿」がある。
黒く見えるのは修二会で使用された松明の籠の部分。

今日の暦:昭和19(1944)年、最初の神風特攻隊がレイテ沖海戦に出撃する。


今昔奈良名所「奉納された"火の行"の竹」

2018年10月22日 | Weblog

修二会のお松明は、本来、二月堂に上堂する練行衆の道明かりとして灯される。
修二会期間中の3月1日から3月14日に毎日あげられている。
12日と14日以外は19時に大鐘が撞かれ、それを合図に「お松明」が始まる。
11名の練行衆が一人一人、二月堂での行のための道明かりである。
通常10本の「お松明」があがる。
ただ、12日だけは、全ての練行衆が上堂するので
11本の「お松明」があげられることになる。
12日の籠松明ともなると、長さ6mほどの根付きの竹の先端に、
杉の葉やヘギ・杉の薄板で籠目状に仕上げ、
直径1mほどの大きさの松明に仕上げられる。
「火の行」とも言われる「修二会」を裏で支える
「童子」たちによって作られている(東大寺・修二会より抜粋)。
画像は周辺各地から竹送りとして、寄進者名が墨書きされた竹。

今日の暦:昭和37(1962)米国がキューバの海上封鎖。