《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

平城京よもやま話「装飾品」

2010年03月31日 | Weblog
帯の金具も5位と6位とでは大きさも異なり、その大きさで身分をあらわしていたのではないかと思われている。山口県などからも帯の金具が出てくるが、地方から出てきた人が金具の付いた帯をもらい故郷に帰って自慢や証にしていたのであろう。また当時の女性のネックレスや指輪などは身分や秩序などを表現していて、直接身につける習慣はなかった。装飾品を直接身につけ飾りとするのは江戸時代以降のこと。
(今日の歴史=1970年日本赤軍派が日航よど号を乗っ取り北朝鮮へ)

平城京よもやま話「食器と食事」

2010年03月30日 | Weblog
食器の使い分けも始まり、ご飯はご飯の器、汁物は汁物の器。それらの食器も貴族が使う食器は中国からの金属椀、漆塗りの椀などを使っていた。箸も多く出土しているが庶民は飛鳥時代と同じく手づかみが多く、土師器の椀で品数もわずかな粗末なものであり、身分の差を痛感させられる。何時の世も同じと言うことだろう。
(今日の歴史=物部守屋が排仏を唱え寺を焼き仏像を捨てる)

平城京よもやま話「井戸の話」

2010年03月29日 | Weblog
位の高い役人と庶民の衣食住の格差が大きいのは分るが、井戸まで格差があったと言うから驚き。一坪以上の宅地を持つ役人の邸宅跡からは横板組(再利用板を含む)みの立派な井戸跡が見つかっている。位が下がるにしたがって、丸太刳り抜き⇒立て板組み⇒曲げ物側板と位が下がる。井戸ももてない庶民は川や池の水を飲んでいたのではないだろうか?
(今日の歴史=730年薬師寺東塔が建てられる)

平城京よもやま話「条坊と宅地」

2010年03月26日 | Weblog
南北に奇数の極数である9本の道、東西は偶数の極数である8本の道を設計したのでは。平城京は中国の長安城の1/4の広さになっている。城坊は1500尺(532メートル)ごとに道をおき532メートル四方をさらに16分割しその1区画を1坪=1町とした。位に応じて宅地の広さは決まっていて長屋王跡は4町(67.000㎡)もあったが、庶民の住宅は53㎡~35㎡ぐらいで現在の標準的なマンションが77㎡であるから想像が出来る。
(今日の歴史=1220年清水寺が焼失する)

平城京よもやま話「外京の謎」

2010年03月24日 | Weblog
藤原京、平安京にはない東側に飛び出した部分。興福寺や春日大社は藤原勢力の場所なので廃止が出来なかったのではないか。大化の改新に功労のあった中臣(藤原)鎌足の第二子不比等の影響がいかに大きかったかと云うことになる。画像は興福寺南大門発掘現場。
(今日の歴史=741年聖武天皇が国ごとに災害を取り除くため国分寺・国分尼寺の建立を命ずる)