うひゃー、楼門に太陽が…。金輪山・唯心院の楼門の梁には立派な獅子や象の梁飾りがある。大和高田市は江戸時代以後綿業を中心に栄えた町。本郷西に高田氏(当麻氏)が文明15(1483)年に建立下不動院がある。
宗我都比古神社は馬子が蘇我氏の氏祖である蘇我石川宿祢夫妻を祀ったことを起源とする「宗我都比古神社」がある。「蘇我入鹿が鶏鳴を合図に首をはねられたので、昔は小綱では鶏を飼わなかったといわれる。」と言う伝説がある。
入鹿神社。蘇我入鹿の木造坐像を神体としている。この辺り橿原市周辺は曽我氏ゆかりの地で「蘇我」「曽我」と言った地名も残る。蘇我氏と言えば大化の改新で入鹿が暗殺され、蝦夷も自殺をするがそれはあくまでも蝦夷の本家の滅亡にとどまる。傍流とされた蘇我倉麻呂の子、蘇我倉山田石川麻呂が中大兄皇子の協力者として関わりる。しかし平安遷都後、馬子の7代孫(石川真守)を最後に歴史から姿を消す。
北から歩いてきた下ツ道と東西にはしる横大路の交差点には高札が掲げられていた。横大路は河内から伊勢へ通じる「伊勢街道(初瀬街道)」で何れも当時の幹線道路。江戸時代中期以降この辺りは参拝巡礼などで大変賑わっていた。「八木札の辻交流館」は当時の旅籠の1軒。この旧街道歩きで初めて広い畳敷きの座敷で昼食、休憩となった。
秦楽寺(じんらくじ)。聖徳太子に仕え、当時勢力を張った秦河勝の創建と伝える。空海が行脚の途中、当寺に留まり「三教指帰(さんごうしいき)」を書いたと伝えられ著作中、うるさく鳴く蛙を叱った。それからは池の蛙が鳴かなくなったと云われており、法隆寺の目のない蛙の伝承に似ている。