心眼寺は真田丸の中にあったとおもわれている。
元和8(1622)年、幸村と嫡男の幸昌(大助)の供養のため、真田丸の跡地に創建された寺。
「境内には幸村ゆかりの"鎧掛けの松の木"がありましたが、1945年の大阪大空襲の際に焼失してしまったそうです。
門前には真田幸村出丸城跡の石碑があるほか、
境内には400回忌に際して2014年に建立された幸村の墓碑もあります」と。
外国人もちらほら見かけた心眼寺。
(画像地図は大阪高低差学会の地図に加筆したもの)
心眼寺は真田丸の中にあったとおもわれている。
元和8(1622)年、幸村と嫡男の幸昌(大助)の供養のため、真田丸の跡地に創建された寺。
「境内には幸村ゆかりの"鎧掛けの松の木"がありましたが、1945年の大阪大空襲の際に焼失してしまったそうです。
門前には真田幸村出丸城跡の石碑があるほか、
境内には400回忌に際して2014年に建立された幸村の墓碑もあります」と。
外国人もちらほら見かけた心眼寺。
(画像地図は大阪高低差学会の地図に加筆したもの)
大和郡山市にある慈光院。沓脱から書院まで少しの距離だが、
黒光りする板間を歩くには足が凍てつくのではとおもう程、今朝は冷たかった。
借景庭園は仰ぎ見る対象が「山」だったりすることが多い。
ここ慈光院は低く刈り込まれた生垣と空、向こうには奈良盆地と山並み。
和歌山大学・小野健吉教授は景観を取り入れた「俯瞰の庭園」と表現されている。
書院で静かに抹茶を頂き静寂な一時を過ごした。
画像正面が旧真田山陸軍墓地への登り口。この崖の段差が約10㍍になっている。
上の陸軍墓地が玉造筋より直線で200㍍程の距離で13㍍の標高差(地理院)は大きい。
「もしや、ここが真田丸の東端か?」とおもいながら歩く。
真田丸跡とおもわれる位置には近づいてはいるが…
三光神社から東へ向かって2,3分の、より高台にある「旧真田山陸軍墓地」。
日本最古・最大級の帝国陸軍が設立した陸軍軍人墓地。圧倒される5300基余りの墓が並ぶ。
墓地周囲には上質な花崗岩の記念碑とも見える将校らの墓。
中央部には風化の進んだ和泉砂岩の墓碑。
殆どが日露戦争以前の兵卒や下士官のもの。
難波宮跡公園の片隅には「またも負けたか八連隊、
それでは勲章九連隊(京都の歩兵第9連隊と「くれんたい(もらえませんよ)の語呂合わせ)」
として歩兵第八連隊跡碑がある。先の戦争では我が身内を含め多くの兵隊がここから出征した。