奈良には京都府木津市の「出」といわれる、有名な石工がいたがこの当たりになると、やはり京都の石工が名を刻んでいる。社殿は春日造りで、祭神も春日大社の第三、第四殿と同じとのこと。この地にも興福寺の勢力が及び、奈良と何らかの関係があったとおもわれる。本殿前の神前型石燈籠には京都・伏見禅正町の石工名「松之介」が刻んである。
昔この辺りを通りかかった僧がある。農家に立ち寄り老婆に水を所望した。老婆は快く返事し出て行った。しかし一向に水はこない。ついに僧は寝込んでしまった。随分たって老婆が水を運んできた。僧は村の水場はどこにあるのかと尋ねると、村には水場はないので下の川まで行って汲んで来たと答えた。深く感激した僧は返り際に家の前の広場に錫杖で円を書き「ここを掘って井戸にするように」と云って出て行った。夫や息子が畑仕事から帰ってきたて、ここを掘ると綺麗な水が湧き出たといわれている。「めだかの飼育用に」と、小型トラックで汲みにこられていた。
奈良市の昨日の気温は35度。9時半から旧西大寺境内で高校生の授業の一環として、最終グループの発掘体験があった。場所の説明や発掘の方法などの説明を受けた8名の生徒たちは猛暑のなか、一生懸命に発掘作業の体験をした。中にはいい手つきで次から次へと土を取り除き、土器片を探りながら進んでゆく生徒もいた。末は考古学に興味を持って、この道に進んでもらいたいと思いながらサポートに汗を流した。
本堂、客殿の屋根は茅葺でめづらしい。この寺にまつわるお話。「鶴の子」と呼ばれる柿がある。実は小さくとにかく渋い渋柿のことである。年末になると決まって美しい娘が白い干し柿を売りに現れるようになった。「どうしたらこんなに甘くておいしいものができるのか」と村人が尋ねると、娘は丁寧に製法を教えてくれた。村人は驚くとともに、娘がどこから来ているのかと、娘のあとをつける。娘は禅定寺の奥の谷で姿を消した。その後、娘は二度と村に現れなかった。村人は「娘は禅定寺の観音様だった」と考え、干し柿は、孤独そうな娘だったことにちなみ「孤娘(ころ)柿」と名づけたという。「孤娘」が「古老」になった理由も、「古老が作り方を伝えてきたから」「長寿を象徴する鶴の名が付いた柿だから」等など。
信西入道塚の近くにある「おおみちじんじゃ」。宇治田原のホームページによると、中世からの存在が明らかになっている神社。本殿の軒下左右に、彩色が残る狛犬が一対ある。狛犬はインドが起源で、最強の猛獣ライオンとされている。日本では守り神として奉られるようになったとの説もある。この狛犬は木製で彩色を施されているので、やはり平安時代のものか(勉強不足です)。ご近所の方のお話によると、「この狛犬が盗難にあって、その後戻ってきたので、盗難除けに鉄の檻に入れられた」とか。訴えるような眼差しが痛い!(年代を7/15日、産業振興課へ問い合わせのメールを送っているが、まだ返事はない)