雷門大提灯の下にに彫られた龍の彫刻。高さ3.9m、直径3.3m、
重さ約700㎏ある大提灯で京都で製作され約10年ごとに新調される。
それが畳まれる時がある。浅草を代表する三社祭の時と台風などの時だそうだ。
境内にはこの他に、志ん橋大提灯、小舟町大提灯、二天門大提灯の大提灯がある。
浅草のシンボルとして、テレビ等でよく見かける総門・雷門。
正式には風神雷神を左右に奉安する「風来神門」という。
何度も焼失を繰り返し寛政7(1795)年に再建されたころから
提灯の奉納が行われるようになったが、慶応元(1865)年の失火していまう。
それから95年後の昭和35(1960)年に当時の松下電器産業社長・松下幸之助氏の個人的寄進により、
鉄筋コンクリート製で再建された(HPより抜粋)。
飛鳥時代の話。この辺りに住む漁師の兄弟が網にかかった仏像を町の長に見てもらったところ、
観世音菩薩とわかりお堂にお祀りしたのが始まり(秘仏)。
また「観音さま示現の日(菩薩が現れる)一夜のうちに千株ほどの松が生じ、
三日過ぎると天から松林に金の鱗を持った龍が下った」とされており、
後に山号「金龍寺」の由来になった。と言うのが浅草寺のHPに。
よくある起源の話である。
築地・波除神社。「慶長江戸絵図には今の日比谷の堀辺りまで汐入を描き、八重洲の海岸に船の役所もある。
この築地辺りも海面だったが、4代将軍家綱が埋め立て工事をした。
堤防を築いても築いても激波にさらされるという難工事だった(神社HPより抜粋)」とか。
境内には牛丼の「吉野家」創業発祥の碑や、えび塚、玉子塚、すし塚、活魚塚もある。
真夏、真冬2年余りに渡り、石燈籠について約200基を調べた結果、
奈良市埋蔵文化調査センターで調査報告書と言う形にして頂いたことは3月10日に書いた。
その報告会を他二名の方々と共に催していただいことが、
奈良新聞(6月28日)の記事になった(画像は入替)。
虫食いのような人生を送ってきたが、
多くの方々のお力添えや、ご指導の結果「報告書」と言うまとまった形にして頂き、
また今回は我が人生の最後で最大の「晴れ舞台」まで作って頂いたことに感謝である。