か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

ウソはしきりと絶叫する 80

2021年06月20日 | 韓国
<前回のつづき>

……万一ロシアの協力を得て政局をひっくり返した場合、我が国の官僚と庶民は日本を推し立てたようにロシアの命令に従ったとしよう。ロシア公使は喜びその姿勢を受け入れて兵力を派遣して仁川からソウルに進駐した、

ということになっていたことだろう。これは「 倭館播遷」(高宗がロシア公館に一年間身を潜めたこと)以前、朝野を問わず朝鮮人は日本を友にしようという流れだった。それほど日本に対する世論はよかったということだ。したがって、日清戦争以後日本に反対する抵抗というものはほとんど見れられなかったということ。大韓民国政府がいかに歴史を歪曲して学生たちを洗脳をしようと尽力しているのかがわかる。


二番目の歪曲は、乙巳義兵が明成皇后(閔妃)殺害事件と断髪令を契機に起こったとした部分だ。乙巳義兵は閔妃殺害事件とは何の関係もなく、断髪令に抵抗して起こった暴動だとみなければならない。閔妃死亡後、高宗は迅速に閔妃の地位を消し、1895年8月22日に証書を通じこれまで閔妃に対し自分自身をはじめ王室と政府がいかに怯えていたか、いかに大きい苦痛であったかを対内外に公表した。


「朕が臨御(隣席)して以来32年が過ぎようかというところ治下(政治)がうまく行かなかったのは閔氏が親せきを引き入れ彼らを左右に置き朕の耳目をふさぎ人命(人々)を迫害し政令(政治)を乱し官職を売買したからであった。閔妃による虐待は空をつくほどで四方には盗賊が横行し朝舎(政府)は危険なほど傾き平穏に暮らすことはできなかった。朕が閔妃の極悪無道な事実を知っていながらも罰することができなかったのは自分の不明といたすところであるがその一団が怖くてこうなって(暗殺して)しまったのだ……閔妃の悪事は実に天地にあふれ二度と宗廟(歴代王朝の墓)を継承させるわけにはいかないのでわが王家の故事に倣い彼ら西人(党争の一派)を廃するところである。」と述べた。

これに対し黄炫は「この朝書が実は高宗の意見から出たものではなかったが、当時の人々は事実を記録したものだと考えた。」と述べている。すなはち、たとえ高宗が出した(閔妃の)廃所という内容の朝書が高宗の直接の作成ではないとしてもそれは真実を述べるものだと当時認められていたという意味だ。このことは閔妃殺害をすべての朝鮮人たちが喜んだということを述べているものだ。


このように乙巳事変と呼ばれる1895年の小さい反乱は日本とか閔妃殺害とは何の関連もないものである。ただ当時、キムホンジプ政府によって強制的に実施されていた断髪令に逆らうための武装蜂起であったのみである。状況がこうなのに韓国政府はあたかも乙巳義兵が日本の支配に抵抗し閔妃殺害に抗議するための朝鮮民衆が抗議するため自発的におこした反日義挙であるかのように描写されているのである。


閔妃と親露派を除去した朝鮮の革命勢力は挫折した改革方針を再び進めるためにこれを乙巳改革だとした。その過程でキムホンジプ政府は、サントウ(既婚男子の髷)を切る断髪令を強制的に推進した。当時の朝鮮社会では儒教の教えに従い髪の毛を切ることはタブーとされていたので首を切り自決するものが多かった。それほど抵抗が強かったのだ。その教えというものは「小学 孝行編」でてくる「身体髪膚受之父母 」(身体髪膚これ父母にうく あえて傷つけざるは孝のはじめなり)である。この断髪令騒動で儒学生たちは自分の首を切ることはできてもサントウを切ることはできないと抵抗したがサントウを切られたののでのどをからし慟哭した。結局多くの人が父母に詫び自決もした。


このとき断髪令に抵抗し始まった暴動に対し国史(教科書)は乙巳義兵と称している。彼らは反動暴動だとはいえるかもしれないが、義兵というには適切な呼び方ではないと思う。当時朝鮮人たちは閔妃と閔一族を憎悪していたので閔妃殺害には歓迎する雰囲気が一般的だった。断髪令に抵抗する暴動をして「明成皇后と断髪令を契機として」発生した「抗日義兵」にまつり上げるとはとんでもないことだ。




<次回用メモ> (2-2.31 운동과유관순) から


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