お母様の手記を読むとき、僕はなんて生ぬるい環境に生きてきたのか恥ずかしくなる。電通にわが子を殺されてなお他の社員を気遣う心の広さに、ああ、お母さんがいたから本当にまじめな子が育ったんだなと実感する。
東大なんて、わが子を通わせている親は日本人の平均所得の5倍もある。その中でお母さんは必死に働いてまつりさんもそれに応えた。そういう辞めるにやめられない人を狙ってくるなんて、なんて汚いんだ。いじめた本人、時として加担した同僚、上司。悪魔の巣くう最低の会社だな。
会社というものはそうしてまで生き残っていかなければならないものか。
そうだ。と社員たちは言う。そしてその社員がまた自殺する。電通は繰り返しているじゃないか。
予告する。いじめ体質は何も変わってない。配置転換でごまかすな。がん細胞が転移したに過ぎない。今年また死ぬ。
いくら死んでも会社は生き残るため何でもしていいんだろ。そして、来年も死ぬ。再来年も死ぬ。死に続ける。
だが、最初に、いくら死んでも会社の存続が優先だといったじゃないか。、それなら天孫降臨ののちまず日本列島より先に会社ができたはずだ。
会社はなぜ万能の力を持つか。ヨーロッパ中世の宗教裁判を考える。他の例を引くことによりそこに共通する概念を成立させるため有効なことがあるのに、安易に思考停止に走る人がこの島には多い。人間に向かない人たちだ。だがこの人たちは、中世にとどまらず現代にいたるまで重要な役割りを担うことになる。
魔女裁判(男もいた)で死刑、主として火あぶり、になった人が150万人いた。判決を決めたのは司祭のようで実はそうではない。民衆だ。思考停止した民衆だ。民衆は司祭から正義というお墨付きをもらい少しでも異常なものに石を投げ火をつけ殺した。
司祭は民衆を正義というオブラートに包んでやることにより教会の安泰を図った。
バカは何かしら正しい側にいるみたいだということで安心し必要以上にわずかな違いも許さず攻撃する。
やがて、泥酔した熱狂を深く反省することによって、個人の思想はさまざまであり教会も会社もおよそいかなる集団も構成員が異質なものを持つことを相互に認めることの重要性を知る。それこそが社会を健全にすることだと憲法に書いた。
その点電通はいまだに不健全で、人殺しを狙う、臭くて、汚い、腐敗した会社である。
そこに入社しようとする学生がいる。お前たちは人間ではなくて蝙蝠だな。人に電通に勤めているということを平然と言える社会だから電通は安心して人殺し体制をやめない。
まつりさん。僕は仇を討ちますからね。