塩田町には、言い訳がましく取ってつけたような狭い安普請のホールがある。僕は名前だけ気に入った。
" Liberty "
ばら撒き公共事業でバラックホールが立っている。いまは合併で嬉野市になった。
合併したら議員と住民のあいだは関係が薄れ自治は不可能になる。一部の拠点都市のみに利便性は集約され、その他多くの土地は弥生時代に帰る。
元来、地方議員は合併に反対してきた。地方自治を旗印にしていたが、本音は落選を恐れ既得権にしがみついた。イスがほしかったのだ。だが、議員報酬にイロ、それも大変なイロをつけると耳打ちされるととたんに、効率的な議会運営とかいう口実で、言い込められ、まるめこまれた。
結果、無理な合併が横行しかろうじて残っていた地方のオアシス都市は砂漠に消えた。自業自得。
そんな絶望地方をなだめようと、選挙も近い昨今、思い出したように公共事業が再び顔を上げた。
かわいそうにLiberty はパイプ椅子だった。土人の国でもいまはホールがパイプ椅子の国はない。隣の広い多目的コート(運動場)がLibertyを押しつぶす格好だ。写真のように奥行きのない舞台は演劇ひとつ上演できない。弦四+ピアノ、これが限度。あと3メートル奥行きがあればまともになったのに。
筋肉優先の佐賀県に憐れみを。
運動場がホールより大事ならそもそもホールなんてもったいない。
ただ、音だけはよかった。偶然だろうが。アクロスよりよい。
そこに上品な親子がいた。お母さんと中学二年の娘さん。バイオリンをしている人同士は何故か直感で分かる。僕はあまり弾かないほうのバイオリンを先日手放したばかりだ。このことを本当に悔いた。この娘にあげればよかった。
並んで開場を待っているとき、話はバイオリンからピアノ、ホール、音楽全般へと広がった。なんて素敵なときだろう。
静かなお母さん、静かな娘さん。人の話を目をそらさずじっくり聞く。子供は親の思想やしぐさをよく会得している。問われたらまとめて短くポイントを言う。それまでは相手の話をよく聞いているので話が早い。
ちゃんと一番前に座った。あまり一緒にいてはいけないので僕は離れた。小声で楽しそうにお母さんと話していた。
このすばらしさが朝鮮には分からんだろう。まさにここに日本があるのだ。低級低能コネ採用の癒着公務員がどんなチンケなホールを申し訳程度に作ろうと、客と奏者でコンサートは作られるのだ。
真知亜さんとピアノは安宅(やすみ)薫さん(映画「のだめカンタービレ」 のピアノ曲指導、録音)。真知亜は自身の生い立ちにそってバイオリンの苦しさについて語った。僕は何十年ぶりに思い出したくないものを思い出した。だが彼は、自信があったようだ。それは、極めるとこんなに楽しいものだ、という自信。苦しみの百倍も千倍もの楽しみがまっているのだと。
先生からけなされるのがこの世が終わるほど苦しい、ともいった。高いレッスン料とりやがって。これにも同感。音楽家は皆、利己主義だ。変人で自閉症だ。頭が狂うほど競争が激しい。狂わずには勝てない。
真知亜は最後にいった。「もっと楽しむべきだったかな。」
三井住友海上はいいことをした。チケットはわずか1500円だ。佐賀に音楽が響いた。塩田町(現 嬉野市)のホールLiberty が揺れた。