か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

鍋島直正記念シンポジウム   2

2017年12月13日 | 学問

引用

1852年(嘉永5)わが国で初めて反射炉の建設を成功させ、大量の銃砲を購入し、西洋艦船の製造・購入に努めた。また蘭学(らんがく)を奨励し、種痘(しゅとう)を施行し、幕末に薩長土肥と通称される雄藩の実力を養った。藩政改革の成功の反面、幕末の幕府・朝廷をめぐる政争への介入には一貫して慎重であり、直正は1860年(万延1)の幕府の召命を固辞し、翌1861年(文久1)隠退して二男直大(なおひろ)に家督を譲った。その後も招きによって再三上京したが政争への参加には慎重であった。戊辰(ぼしん)戦争では、強力な軍事力によって官軍に重きをなし、大隈重信(おおくましげのぶ)、江藤新平(えとうしんぺい)ら藩の実力者を新政府に送り込んだ。

出処 日本大百科全書(ニッポニカ)

ということで、佐賀藩は薩長土肥のなんと雄藩に列せられた。実情はかなり違って、物は言いようだといういい例だ。

佐賀城内堀

会場のニューオータニの結婚式場

会場

上記の引用は嘘ではない。佐賀藩は日本一の武器、アームストロング砲を持っていた。他藩は先込め式でライフルリングのない関ヶ原以来のお粗末なものだった。上野の戦いはこの佐賀藩のアームストロング砲が決した。

つまり明治維新はこの砲の先から飛び出した。

他にも、好生館(日本最初の総合病院)、種痘、蒸気機関車(これも日本初)、反射炉による製鉄…。

磯田さんは遠慮してはっきり言わなかったが、問題は、直正が討幕か佐幕(幕府を助ける)か態度をはっきりさせなかったことだ。じっと状況を見てほぼほぼ勝敗が付いたところで勝ち馬に乗る。義(正しきこと)に生きる武士からすると、今までの生き方と正反対の行動だ。

僕はだから素晴らしいと思う。

どの社会、団体、会社、集団…。慣習を変えるとなると相当の覚悟がいる。その変化の時期が来るまではのらりくらり、批判を一身に浴びじっと耐える。

葉隠れとは、この苦しさを述べている。「武士道とは死ぬことと見つけたり」は一面真実であり受けもよい。だが死ぬこととは死ぬほどの苦しみということだ。

とくに佐賀の農村部では話しかけても必ず2秒おいて返事をする。北九州、マイナス0.5秒。人の話にかぶせずには話さない。福岡、0.5秒。宮崎、3秒。

直正は、ぼーっとした風体で印象のどこにも革新性はない。それがやるときはやる。勝ち馬に上手に乗ったとはいえ間違えたら死ぬ究極の判断だ。

その後も人材の輩出はとどまることを知らない。僕の好きな江藤新平、日本最大最古のODAつまり日本赤十字社を作った佐野常民、嫌いな大隈。

大隈記念館

大隈の生家(再建)

唯一その気風をよく受け継いでいるのが佐賀西高校だ。5回ぐらい出張したが、生徒を見ると、本当にお前は佐賀人かと思うほど理知的な顔立ち、控える態度、しつけの良さがわかる言葉遣い、肝心の偏差値。

佐賀西高のそばで銀杏を掃くおじさん

教室に行くと若い江藤新平がいる。直正、大隈もいるが佐藤尚武大使がいる。

ミサイル火星号は、佐賀に落ちてほしいがスーパーモリナガと佐賀西高に落ちてはいけない。

ケプラーについては明日。今日は流星をみる。

 

 

 


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