か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

Ich habe ein Konzert gehört.(コンサートに行ってきた)

2015年09月25日 | 音楽

ドイツ語で書いたのは時々使わないと忘れるからだ。

英語はこれでもかと目に入るがドイツ語はめったにない。映画が聞き取れるほどの能力もない。時々使おうと思っただけだ。

「僕はドイツ語ほど英語は上手ではない」というとなんかイヤミっぽく聞こえる。コンサートに行くとかならずいるのがこの手の人間だ。聞いてもないのに講釈を垂れる。そして人を不愉快にする。

人がおよそ知らないであろうドイツ語を不必要なときにだらだらしゃべる。人がおよそ求めていない曲の知識をだらだらしゃべる。同じことだ。

まだまだ日本は脱亜入欧のトラウマに悩んでいる。進んだフランス語、劣った沖縄語・・・のように。しかもそれをおせっかいにも知ったかぶりをする。

 

先日、貴族趣味をこよなく愛するたらけんは、コンサートに行った。車にワックスをかけ満タンにし高速を飛ばしS席を予約し2時間も早くついた。(Konzert は、一番前でないといけません。首がいたい人は家でCDを聴くのです)

日本は高速道路が有料でとても高い。Free wayはタダ道じゃないのか。ガソリンも高い。満タンで一万以上になる。コンサート代も2万だ。

ひがみなく読める人は一定の教養のある人だ。

Sに座る人は皆そんな人たちだ。本人あるいは娘はピアノをかなり弾けるし、コンサートにある曲目程度はすべての音符が頭に入っている。

だからそんな人からカネを取るとはどういうことか、奏者はよく考えてほしかった。アンコールに何曲弾こうとどうでもいい曲ばかりだ。しかし自分が力を入れて弾く曲はいわゆる「仕込み」に時間がかかっている。

天才的な人は一ヶ月、普通で半年から1年かかる。その間弾き込んで弾きこんで仕上げていく。だから2万も払うのだ。今回は「仕込み」をしていない。

客にはバイオリンが弾ける人は、大勢いたということを忘れていたか理解できないでいたようだ。

奏者はカネを採る以上、金額の多少に関わらず「どうだ、参ったか」というものを持つべきである。そうでないなら客は自分で弾いたりCDで間に合う。

「いやいや、音楽とは音を楽しむと書くじゃないか。皆で楽しもうという人もいる。」という寝言をいう人がいる。間違っている。はるか後方の天井桟敷で3000円でコンサートに来たつもりの人のみが言っていい言葉だ。

本来コンサートとは閉鎖的排外的な同好の士たちのひそやかな楽しみの場であり、一定の努力なしにはキリギリスたちが近づいてはならぬところだ。

いつも一曲のために5万が飛ぶ。しかしそれだけのことはあったと思うことが多い。Sで見るとその人の息まで分かる。その興奮をそのままに急いで家に帰って弾くと超絶技巧が少し引けた気になれる。

楽しみ方は聴衆それぞれあるが、弾くほうとしてはすべての人に感銘を与える気構えが必要である。

それができなければカネをとってはならぬ。

まるで大人のおけいこ発表会だった。同業の情けとして名は書かないでおく。

僕は1回/5日でコンサートにいく。秋だからだ。レッスン代だとしたら安いもんだ。

 

 

 

 

 

 


最新の画像もっと見る