財布を買った。福岡天神やこのごろの博多駅に行けば、それなりの新作に出会えるだろう。だが良いものとは豊かな土地にしかない。
昔日の日々、わが世の春を謳歌した町があった。かろうじてかつての栄光を感じる町でも、ふんだんにカネがあり湯水の様にカネを使った土地には本物が根付いている。
逆説的に聞こえるだろうが、無駄遣いがあふれた土地は、やがて廃れて廃墟みたいになっても物を見る目が生きている。
貧しいだけの労働者のそばには、本物は近づかない。労働者のほうでも本物を避けるから、「名品」といわれるものだけがかもし出す優れた文化は、かつての炭鉱とか港湾とか製鉄とか、とにかく、そこらの労働者の5倍の収入のあった、一見ならず者達に引き継がれていったのだ。
今回佐賀に限って話をする。佐賀玉屋は、佐賀という窒息させる湿度の中で孤高を保った奇跡のデパートである。知られていないが佐賀の中小企業のレベルは西日本最高である。アメリカのロケット、アポロは佐賀のアポロ電子工業が無かったら飛んでない。そんな例はいくらでもある。
そこの管理職、経営者は、豊かなときをもち審美眼を養った。ゴルフ場と会社しか知らない福岡のチンピラ企業経営者には分かるまい。福岡では育たない人材たちだ。
店内に人が少ない。したがって広い。店員はマニュアルを繰り返す機械ではない。売らんかなとあせっていない。Dakotaについての薀蓄を語り合い、さてどれにしようかと悩む。楽しい悩みだ。
じつは佐賀玉屋は風前の灯だ。なくしてはいけない。経営の話ではない。佐賀の文化の話だ。
帰りは日本食を食った。
冷たい茶碗蒸しが気持ちいい。レタスは手前の味噌をつけた。なぜこんな高いところに来るか。わけは簡単。塩辛くないから。
八寸膳。高さ八寸の膳の意味だったが、足はなくなりお膳だけが残った。こう見えても大食の私が残すほどの量があった。
あじ、ひらめ。しょうゆの中にモズクを入れた。いい考えだ。
手間がかかっているのは分かるけど、僕にはもっと具が大きくて、どんぶり鉢に注がれたれたほうが良かった。
メインは平凡だったので省略。