【久々の稽古】
私は普通のサラリーマンである前にまず、男であり、空手家である。
このブログで私の空手を紹介するのは初めてだが、今回よい機会だったので稽古風景や空手に対する考えなどを恥ずかしながら披露してみたい。
100624、拳友である沼澤師範代から、稽古の誘いあり。
かねてより地元格闘家の秘密練習場として連絡のあった、市内某中学校の武道場へと足を運んでみた。
これが武道場。なかなか立派な建物だ。通常は、市営の体育館で稽古するのでここに来るのは初めて。ここをメインで利用しているのが、地元の柔術アカデミー「K-3」のメンバー達だ。
激!いわきK-3のblog
http://blog.livedoor.jp/jcm800zakk/
このブログにもこの日の練習風景が載っている。
「柔術班」とは別に、我々は「打撃班」として稽古場を使わせていただいた。
【なぜ空手をやるのか】
眼鏡をかけたマニアックでメタボなオッサンがスバルに乗ったりプラモを作ったりしているわけではない。
不測の事態に備え、身体は鍛えている。
空手歴は20年以上だが、今でも自分は大して強いとは思っていない。
しかし、鞘から抜かない刀だとしても、手入れをしなければ錆ついてしまう。
だから今年ジャスフォー(ピッタリ40歳)の私でも、稽古は続けている。
引退が無い、生涯現役でいられるのは、武道の良いところだ。
強くなりたかった少年の頃。ケンカが弱かったわけでもないし、別にイジメにあったからとか、身体が弱かったからとか、そういうわけで空手を始めたわけではない。
何故、空手を選んだのか。一番ケンカに近い武道に見えたのだ。
素手の拳で殴り合い、蹴り合い、組み合ったらブン投げる。倒したら踏みつける。複数の敵を相手にし、急所に攻撃を入れる。
乱暴なハナシだが、闘争の現実・原点とはそういうものだ。
人は皆、ケンカなどという争い事は避けて通りたいものだ。怖いからである。
殴られる・・・!蹴られる・・・!ボコボコにされる・・・!怖い思いを絶対、したくないのである。
私もそうだった。いや、今もそうかもしれない。でも、そんな臆病な男であり続ける自分が許せなかったのだ。単純に男として。
夜道で彼女や家族と歩いている時、頭のイカレタ、どチンピラにからまれて負けたら、自分のレーゾンデートルはどうなる?愛する人や、自分自身すら守れなかったら、自分の生きていく道や意義などあっさり消えて無くなるだろう。
少年期の私には、そんな弱虫野郎の自分は絶対に看過出来ない、絶対に許せない、重大な絶対命題(テーゼ)だったのだ!
若い頃は極真カラテ・新カラテの激しい稽古で肋骨を2回折り、ふくらはぎの筋肉の断裂で松葉杖で過ごす時もあった。稽古の後に行ったレンタルビデオの店で失神しそうになった。
真夏のうだるような暑さの中、脱水症状でガタガタ震えた事もあった。
だが30代のいつ頃であったか、無所属の武道家である私は、ある時気付いた。
「これは・・・敵ではなく、自分自身と闘っているのだ・・・(アンチ・テーゼ)」と。
空手の基本稽古は単調で苦しい。同じ事を何度も何度も、しつこくしつこく、これでもかこれでもか、と延々と身体に浸み込ませてゆく。
年を喰えば動きがユルくなる。息もあがりやすい。仕事で精神的肉体的に疲れきっている。しかも空手の稽古というのは本来ひとり稽古が主で、孤独なのだ。
【空手とは何か】
空手は元をたどれば中国武術であり、それが沖縄土着の護身術と融合して出来上がったという経緯があり、純粋な意味での日本武道ではない。
中国から、そっくりそのまま伝わったとされている型、例えば「サンチン」「セーサン」「サンダイルイ」などは、不思議な事だが現在の中国には痕跡すら全く残っていない。中国において何らかの理由で失伝した可能性が高いが、中国拳法は長江を境にして南と北の拳法に分けられ、突き方、立ち方などから空手は南拳の影響を強く受けているのが判る。
創世記の空手が型の稽古を重視していたのは中国拳法の影響である。
型とは、自分を中心にして周囲に敵がいる事を想定し、仮想の相手の攻撃を受けたり、こちらが攻撃したりするひとり稽古である。
近代になって、合同稽古を促進するものとして創られたいわゆる空手の「基本」「移動」「約束組手」は、型を一度分解・整理したものである。
素人が見ると、型は変なモノに映ると思う。見えない敵に向かって攻防を行うのは滑稽に見えるのだと思う。
空手は基本と型が繋がっているから、型に無い動きを基本としている流派は、本質的に空手とはいえないかもしれない。
型とは、空手の本質を追究する旅において脇には置いておけないものであると判断したい。
だが、型を極めれば強くなるかというと、全くハナシが違う。この辺が空手の難しいところなのである。
本来バーチャルなものである仮想稽古をもって実力を判断するのは非常に難しい側面があり、近代になってから大学の空手部を中心として発展していったのが組手、いわゆる対人稽古や試合である。
空手は長らく「一撃必殺」の神話があり、そのため攻撃を相手の寸前で止める「寸止め」形式が一般的だった(競技人口としては今でも多い)。この方式だと、その技が決まったら、間違いなく相手にダメージを与え得ると判断するのは審判なので、本当にそれで人が倒れるかどうかは推測になってしまう。
その後、寸止めに異を唱える形で普及したのが防具空手や日本拳法である。防具付きは安全性と実戦性をバランスよく稽古できる・・・かの様に思えるが、防具で守られており、痛みを感じない、という面がマイナスにはたらき、実際は受け技、つまりディフェンスの技術がおおざっぱになるという側面がある。つまり、防具用の動きになるという事である。
さらにその後大きく普及したのが直接打撃制の空手である。安全のため素手で顔面を突いてはならない、というテーゼのため真の意味での自由な攻防とは言えないが、相手の攻撃を実際に身体で受け、自分の攻撃も入れる事が可能なため、ある程度の実戦性を担保しているのがこの方式であり、私の空手もその流れをくむ。
しかし人間とは常にタブーを破りまた、その先を見たがるもので、「顔面にパンチを入れて見たい」となるのは自然の成り行きであった。
方法としては手にグローブをはめるか、顔に防具を付けるかの二通りがあるが、私が現在行っている稽古はグローブを用いた稽古である。
グローブは純粋な空手の小技が使えないという欠点があるが、「当てられると痛い」というのは大事なポイントである。
この「痛み」が伴わないと、真の意味での「怖さ」が呼び覚まされないからだ。「怖さ」とは結局、「死にたくない」「生き残りたい」という、本能に訴えかける認識で、武道としては必要不可欠な要素である。
↑私の空手着姿。帯に「武道空手道」と刺繍したのには理由がある。
通常ここには所属団体・流派の文字がはいるところである。
「武道空手道」という流派は無い。私ひとりだけだ。「武道空手道」という文字には、「流派超越」「ポイントではなくKOで倒す空手」「したがってスポーツ空手とは一線を引く」「自己研鑽が目的」という意味が込められている。
「○○会」とか「○○会館」とかのブランドはいらん。空手は空手だ。
もっとはっきり言おう。私は組織というやつが大嫌いなのだ。そういう人は多いと思う。しかし、人間は組織の一員とならなければ、まっとうな社会生活など送れぬ。
しかし自分の自由な時間を使う時まで、組織に縛られる事はないだろう。
勝手気ままに稽古出来るのは、道場無所属の特権だ。
【ホントは疲れていたが】
木曜は一番疲れがたまっている時である。
しかし、最近の私は退屈な日常に嫌気がさしていたのだ。気持もふさぎ、体調もなんとなく優れない。血行が悪くなっている証拠だ。
下戸なのでストレスを酒で散らす事が出来ない。
無理しない程度の運動をしようと出掛けた。
↑柔術班はいつも熱心。試合などの目標があり、打撃も出来る人もいる。立っているのが真由美ちゃん。若い時、結構よくナイトドライブしたよね!この子が柔術班のまとめ役をしています。柔術の現役ですよ!
↑打撃班は板の間でミット打ち、マス・スパーリングなどでテクニックを上げていきます。右が友人の沼澤師範代、左のとっても爽やかなイケメンボクサーは、石井君。パンチのコンビネーションを行っているところ。
↑二人の練習もハイテンションになってきました。
この後、私とこの二人と、漆山君というシューターの4人で、ローテーションでボクシングのマススパーを行った。特にこのイケメン石井君、さすが専門家、私のパンチはかすっただけだった。
久々に行った顔面パンチのスパーリング、ブランクがあったわりには動けた?ような気がした。
こうしてボクシングをするのも全て、自分の空手をより高みに近付けるための修行である。
矛盾するようだが、「使わないため」に、「使えるようにしておく」。
自衛隊みたいなモンです。
拳友、沼澤師範代。仕事のグチも親身になって聞いてくれる、無二の友人だ。以前勤めていた会社の同僚で、同じ匂いのするもの同士、自然と意気投合して現在も私と同様、空手の道を追求する心優しき野獣。実はガンダムマニアであり、サバゲーマニア。左に写るは彼の長男。
【空手の立ち方・構え方】
空手には状況に応じた様々な構え・立ち方があり、その辺が他の武道、MMAやボクシングと大きく異なるポイントである。
ここで、簡単に3種類の立ち方を説明しよう。(モデル:私(*^_^*))
【猫足立ち】
この立ち方は主に、蹴りで攻め込む際多く用いる立ち方である。重心が高いため前後左右に動きやすく、また相手の蹴り技を足で防御するのに適している。
前足がつま先立ちになっているのは、金的蹴りおよびその防御に重点を置いているからである。金的を防御するため、絶対に後ろ足で蹴りを受けてはならない。
両手を開手にして上段・中段に置き、突き・蹴りの防御を考慮しつつ、抜き手で相手の目を狙っている。
また、右手を下げる事で相手の上段蹴りを誘い、カウンターを決める事も出来る。
左右の手は円を描いて自由に動かし、薬指・小指付近で「掛け手」を行い、相手の動きを利用して回転・転倒させることも出来る。
相手がどういう動きをするか判らない場合、様子を見るのに適した立ち方である。
【後屈立ち】
猫足立ちでは浮かせていた前足を地面につけ、重心を落とした構え。
基本的には防御に徹した「待ち」の構えで、沈身(ちんしん)によって懐が深くなり身体の中心への攻撃に強い。
中国の実戦的な拳法で多用される立ち方で、安定しているので転倒するリスクが小さい。主武器となるのは射程距離を大きくとれる奥手・奥足の直線・楕円の攻撃で、前足・前手は主に防御を行う。
猫足立ちと決定的に違うのは、前に出した手と足が初撃に使えない、という点である。
重心を低くとっているので、体重のある相手と戦う時に適している。
また、猫足と比較して上下方向の間口が狭いので、相手は攻撃しにくい。
ただし、いわゆる中腰の姿勢なので強靭な足腰でなければならず、実践するにはかなりの修行が必要である。
猫足と前屈の中間的な特性を持つ。
【前屈立ち】
自分の突きを、相手の顔面に最速でブチ込むために特化した立ち方。
前足を若干内側にすぼめて金的を防御し、後ろ足はつま先立ちとなっている。右手は最短距離で突きを打てるところに置き、左手は主に防御、牽制、目突き、先制パンチを行う。
こちらの顔面を打ち易いよう、相手に向かって意図的に顔を前に出し、そこにカウンターの右パンチを合わせるのがこの立ち方の本質である。
突き手の手首を少し反らせているのは、短い距離でも手首の「ひねり」を使って突きをねじこむため。
相手にかなりプレッシャーを与える立ち方である。
【立ち方総論】
空手の攻防は立ち方に左右される。
体重を前か後ろのどちらかにかけているという事は、一撃で敵を仕留める事を求められた武道であるからして、コンビネーションとフットワークで相手を倒す西洋のボクシングやMMAといったものとは質的に違う。
これはどちらが優れているかという問題ではなく、想定するシチュエーションによって物事は全て変化してゆくという、認識上の問題である。
ボクシングやその技術をエッセンスとして取り入れている格闘術は、一般に体重を左右均等にかけた立ち方を用いる。
これは、左右どちらでもパンチやキックを出し易く、また回し蹴りを受けやすいからで、無理の無い立ち方ではあるが、武道的な観点から言えば、右から左、または左から右の連続した動きの中で、身体の中心線・いわゆる「正中線」を無防備に相手に向けてしまい易い、という質的な欠陥がある。
正中線は急所が集中しているので、相手が刃物などを持っている場合、ひじょうに危険である。
相手に向かって身体を「開く」のは、左右の攻撃を受ける時などは良いが、カウンターその他の直線的な攻撃をもらい易い。
空手にもルールがあり、それに沿った稽古も行うが、「武道」である事を忘れず、相手の突き・蹴りは「刃物」として認識しておく事が非常に重要で、上で紹介したような空手の基本的立ち方の本質を忘れてはならない。
※上記3つの代表的な立ち方は、今回の稽古のようにグローブを付けての攻防の 際はほとんど使えませんので、あくまで護身の構えと解釈してください。
【稽古を終えて】
世の中、強い人はたくさんいる。この世界に身を置くと痛感する。
そして、ケンカなどつまらんものだ、何かあっても笑って謝れればそれでいい、となる(ジンテーゼ)。
対人練習自体が久しぶりで、初めて対戦する人もいるため当初不安があったが、昔パンチングボールを徹底的に練習したことがあり、その時養われた動体視力がそれほど衰えていたわけでもなかった。
何発かいいパンチが入り、途中で頭痛も起きたが、ケガをすることも無く終わった。顔面パンチは打ちどころが悪いと、互いに最悪死ぬ危険があるので、あまりムチャをしないようにしたい。
スパー用の厚手のグローブを物色しよう。現状8ozグローブなので。
次の日、顔のあちこちが痛く、何か懐かしい感じがした。
皆が家でビールを飲みながら、野球やらサッカーやらを見、パチンコで一喜一憂し、テニスやバトミントンでおちゃらけている間も、私はひたすら空手だけをやり続けてきた。
だから空手を辞めてしまったら、自分のアイデンティティも失ってしまう。
空手家である時間・・・自分が自分でいられる数少ない時間。