ホーエンシュタウフェン

生きるために食え、食うために生きるな。

ラリー・ウォーレン受難(Rendlesham Forest UFO case-9)

2012-07-06 19:42:14 | UFOの研究(信憑性が高いもの)

 彼(ラリー・ウォーレン)の有力な証言に力を得たUFO研究家たちは、情報公開法をたてに、83年6月、ついに事件発生を裏付ける資料の一部公開に成功した。

それこそが、軍の発表した事件の唯一の手がかりである、基地副司令官、チャールズ・ホルト中佐の報告書だった。


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「80年12月27日の早朝。午前3時頃、パトロール中のアメリカ空軍警備兵二名がウッドブリッジ基地の裏門の外に異常な光をみとめた……」
 そんな書きだしで始まるホルト報告書は、不完全ながらも、謎の飛行体が多くの兵士によって目撃された事実や、飛行体が着陸した形跡があることを物語っていた。
 そして、83年10月2日。400万部以上の部数を誇る英国のゴシップ紙『ニューズ・オブ・ザ・ワールド』が、UFO着陸事件をトップ記事に取り上げた。

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「サフォーク州にUFO着陸! しかも正式に承認!」
 そんな見出しとともに、目撃者アート・ウォーレス(ウォーレン)が描いたUFOの絵や、ホルト報告書、さらには当時の基地司令官ゴードン・ウィリアムスへのインタビューなどが一面で紹介された。
ホルト中佐は報告書へのコメントをこんなふうに拒否した。

『非常にデリケートな問題だ。もし報告書について何か発言したら、キミは将来を棒にふってしまうとはっきり言われた』。

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方、ゴードン・ウィリアムス米空軍准将は語る。

『ホルト中佐の報告書のことは覚えている。

何が起こったのかは っきりわからないが、すべて報告書にある通りだ。

彼は国防省や空軍に嘘の報告をするような人間ではない』。」
 この記事に、雑誌、ラジオ、テレビなどのメディアが追随し、当時の英国はUFO着陸事件の話題でもちきりになった。

それに合わせて、唯一の証人として表に登場したウォーレンも脚光を浴び始める。ニュースの余波はアメリカや日本にまで及んだ。

アメリカの科学誌『オムニ』は事件を特集し、その中で核搭載機の墜落説を強調した。しかしその後、先のCNNの特番は、いままでの核搭載機墜落事件とは経緯が明らかに異なっていることから、それを否定した。
 そして84年には、ウォーレン自身がテレビ出演のために来日も果たしている。

(管理人注:矢追純一の番組「第4の遭遇 第2弾」)

そのとき、ホルト報告書を前に、彼は次のように主張している。
「(ホルト中佐の録音テープを聴き終え)これは事実の一部しか伝えていない。もっと大きな事件が起こっていたのに、小さな事件としてすりかえようとしている」

 そして、彼は、なんと現場で子供のように小さな生き物を3体目撃したことや、その生き物たちが、現場に急行した司令官、ゴードン・ウィリアムスと何か意思を通わせあったと証言したのである。
 しかし、その真相は相変わらず謎につつまれたままだった。
 ところが、事件発生から15年間の歳月を経て、ウォーレンとピーター・ロビンスがまとめた著書、『レフト・アット・イースト・ゲート』がアメリカで出版された。

 

そこには、事件のあと、ウォーレンが体験した興味深い出来事が詳しく綴られている。


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 事件の直後、12月29日の朝。UFOを目撃した兵士たちに呼集がかかり、放射線被曝の有無を検査されたあと、一同は「奇妙な光をみた」とするだけの、偽りの証言書にサインさせられた。

その後、当局はUFOと人類との接近遭遇の歴史をまとめたフィルムを上映したあと、それが軍事機密であることを強調。

そして、スーツを着た情報機関のエージェントが2人紹介された。
 彼らは、冷たく笑いながら、一同にむかってこう警告した。
「2、3人くらいは誰かにしゃべるだろうが、それはかまわない。しゃべるやつには、ナマリ弾をくらわせてやる」
 しかし、ウォーレンは、その日の午後に基地内の公衆電話からアメリカの母親に電話をかけ、禁を破ってUFOを目撃した事実を告げてしまった。

その話の途中、突然電話が切れ、トラブルが始まったのである。
午後3時前。

呼び出されて証拠として母親との会話を録音テープで聞かされたあと、機密漏洩をたてに、除隊もしくは300ドルの罰金を払えと選択を迫られた。

入隊したばかりで、まだ軍に残りたかったウォーレンは、そのとき罰金を支払うことを選んでいる。

そんな彼は、事件を忘れようと試みたが、しかし、すでに軍はまったく別の顔をみせはじめていた。
 まもなく、OSI(特別捜査局)のビル内でデスクワークに配置替えになり、だれかの監視の眼がたえず注がれるようになった。

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やがて軍への不信感をいだき、次第に反抗的になっていったウォーレンは、基地の地下にある秘密施設の存在を裏付けるファイルを読んでいるところを見つかった。

こうして当局にすっかりマークされた彼に、ある日、友人が打ち明けた。
「気をつけろ。OSIのヤツらがお前をハメようとしてるぞ!」
 OSIは、その友人に頼んでウォーレンの部屋に麻薬を隠し置き、麻薬不法所持罪でウォーレンを空軍から除籍しようとたくらんでいたというのだ。

かくして当局の圧力を受け続けた彼は、軍の弁護士に除隊を勧められたこともあって、81年5月16日付けで名誉除隊となり、ついに空軍を去った。
 除隊後、ウォーレンはアメリカに戻って職を転々としながら、生活のために再び軍に入隊しようと何度も試みている。

しかし、そのたびに拒否された。

地元の下院議員を通じて申し込んだがやはり拒否された。

ところが、しばらくして軍から奇妙な手紙が届いたのである。
 そこには、81年9月17日付で、彼が永久に入隊資格を失っていることや、その理由は、彼が「右腕を水平に伸ばせない」からであることが、はっきりと書かれていた。

しかし、そんな事実は存在しない。

何者かが、事実を捏造し、彼に圧力をかけていることは明らかだった。
 その後、80年代半ばに事件の証人として頻繁にマスコミに登場したウォーレンは、87年にピーター・ロビンスと出会い、2人で事件に関する本を書く準備を本格的にはじめている。
その秋。

アメリカのテレビ局が、大佐に昇進してベルギーの基地に配属されていたチャールズ・ホルト元基地副司令官のコメントをついに入手した。

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このとき、ホルトは、報告書に記述された事件の発生を認めたが、証拠物や記録の存在を否定し、さらに、ゴードン・ウィリアムス大佐が事件にかかわったことも強く否定している。
 しかし、92年6月。ロビンスはすでに退役したホルトから電話で注目すべき発言を引き出すことに成功した。

ホルトが「実に奇妙な出来事が起こったのさ」と、事件の発生を認めたのだ。

しかしウォーレンの発言には否定的であった。
 さらに8月26日には、今度はウォーレンも参加して、2度目の電話インタビューを行なったのだが、その時ホルトはこう謎めいた言葉を残した。
「断わっておくが、この会話はみんな傍聴されているよ……」
 盗聴をきらったウォーレンらは翌93年2月16日、とうとうホルトとの直接会談を実現させた。
「実はね、事件の日誌が私の知っているある場所に保管されている」
 そんなふうに打ち明けたホルトは、94年に、別のインタビューに答えて、ついにこんな爆弾発言までしているのだ。
「はじめはUFOなど信じていなかった。しかし、今では、自分たちはこの地球上のどこかの国が作ったのではない、われわれの想像をはるかに超えたものを見たのだと確信しているよ」

 しかし、ホルトの態度が軟化するのとは裏腹に、国家はウォーレンへの圧力を強めていった。

94年9月16日、彼は再び英国へ渡るために、パスポートを更新しようとしたのだが、なんとそれが国から認められなかったのだ。

 彼は「外国で一般大衆にむかって国家防衛の機密にかかわることがらを語った」として、なんと1947年に成立した国家安全保障法違反を問われてしまったのである。
 ここにきて、この特殊な法律を自由に利用できる組織、つまりNSA(米国国家安全保障局)の介入が明らかになったのだ。
 当然ながら、それを不服とするウォーレンとロビンスは、一計を案じ、ケネディ時代に司法長官を歴任したラムゼイ・クラークに直訴。

クラークの圧力によって、パスポートはただちに再発行されている。
 さらにその頃、ウォーレンは退行催眠を受けているのだが、それによって、事件のあと彼は何者かに拉致され、地下の秘密基地とおぼしき場所に連行されていたことが判明した。

そのとき彼を拉致したのも、やはりNSAのエージェントだったのだろうか? そ れにしても彼らNSAとはいったい何者なのだろう?
 52年11月4日に発足したNSAは、やがて国民や議会からほとんど独立し、「アメリカの安全保障のため」に隠然たる影響力をふるいはじめる。

設立当初もマスコミや政府の公的資料に決して現われず、1万人とも言われる局員たちが密かに仕事を開始したらしい。

その活動の実態は、徹底した秘密主義によって現在もベールに隠されたままだ。そのため、NSAとは、「No Such Agency」(ありもしない機関)の略だ、と皮肉るものもいる。
 このNSAが、UFO着陸事件の証拠を隠滅させようと謀っていると見えるのはなぜだろうか? 

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彼らがそこまでUFOにこだわる理由は何だろう?

 先ごろ、元英国国防省UFO担当室書記官長ニック・ポウプが本誌で語ったように、やはりアメリカはUFOを回収しているのではないか。
 もし、その通りならば、「はるかに進んだ地球外のテクノロジーをアメリカが国家機密として独占し、機密が漏洩して世界に拡散した核の二の舞いになることを防ぎ、世界戦略を有利に展開する。

そのためにUFOの出現するところには必ずNSAの影がある」、そんな説明が可能になる。
 しかし、別の可能性もあるだろう。
 たとえば、事件発生当時、折しもポーランド国境付近でソ連軍の動きが活発化し、警戒体制に入った基地は、異常な緊張につつまれていた。

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ひょっとすると、80年代にミグ戦闘機の亡命が話題を呼んだように、ソビエトからUFOのごとき新型の航空機が飛来して亡命をはかり、当時緊張関係にあった米ソ間で裏取り引きがなされたのかもしれない。

いずれにせよ、事件は依然として謎に満ちている。

※月刊『ボーダーランド』97年9月号より抜粋

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謎の光体は人工物なのか(Rendlesham Forest UFO case -8)

2012-07-04 19:09:56 | UFOの研究(信憑性が高いもの)

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今回は、ホルト中佐以外で、この事件に関わった人間についてみてみよう。

事件では多数の兵士が謎の光体を目撃していたため、その方面からの情報の流出がポツポツと出始めた。

「20人もの武装した警備兵たちが、持ち場を離れて一斉に逃げ出してしまったんだ。しかも彼らは核兵器を格納した兵器庫を守る任務にあたっていた警備兵たちだ。それなのに何もしないで逃げたとは、いったいどういうことなんだ?」

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UFOにビーム照射を受けていた核兵器貯蔵用といわれているバンカー

「恐怖につかれた?」
「ちがう、ちがう、武器を持っていたんだ。武器がなければ怖くて逃亡するのもわかる。しかし兵士たちは自動小銃を構えていたんだ。そいつを射てばいいだろ?

 

(管理人注:弾倉を抜いて森に入るよう命令されていた) 

 

武装した兵士たちが、恐怖に髪逆立てて、スタコラ逃げ出したとでもいうのかい? もしそんなことが可能なら、そいつはテロリストにもってこいの手段にはなるがね……」



 1980年12月26日の未明から29日未明にかけて、英国サフォーク州のNATO軍基地付近でUFO着陸事件が発生した。

昨年、アメリカでその事件を15年にわたって追跡した490ページにも及ぶ大書、『レフト・アット・イースト・ゲート』が発行された。

著者は事件当時その現場に派遣された元空軍警備兵、ラリー・ウォーレンとUFO研究家のピーター・ロビンス。

冒頭で彼らの質問に対して、いらだちを込めて語っているのは、元CNNの敏腕レポーター、チャック・デカロ。

その豊富な軍事知識を買われて、現在は米軍のコンサルタントをしている人物である。
 84年、CNNは、その事件の真相を究明するドキュメンタリー番組を制作した。

責任者のデカロは、「UFO」という結論に飛びつくことを極力さけて、軍関係者や民間の目撃者たちにあたり、いったい何が起こったのか、事実をつきとめるためにあらゆる可能性をさぐった。

新型兵器のテスト、核にまつわる事故の隠蔽工作……。
 しかし、彼の豊富な軍事知識や旺盛なる取材力をもってしても、「なぜ、武装した兵士たちが武器を使わずに一斉に逃げ出したのか」、という疑問には、明快な解答が得られなかった。
 ところが、事件をつぶさに目撃したと証言しているラリー・ウォーレンは、そのときの状況をこんなふうに描写している。

「私たちは、霧のように霞んだベールにつつまれた、黄緑色にボーッと光る謎の物体を遠巻きにしていた。それから、特殊訓練を受けた2人の兵士が、黄色いガイガー・カウンターを手に持って、恐る恐る、反時計まわりに近づいていったんだ。
 そのときだれかの声が響いた。
「きた、きた、ヤツらがきたぞ!」

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 見上げると、ちょうど北海方面の空に、ぽつんと小さな赤い光があった。その光が、グングンと近づいてきたんだ。ものすごいスピードでね……。
 その光の球は、私たちが取り囲んでいた発光体の真上6メートルほどの高さに静止した。バスケットボールくらいの大きさで、赤いような、見たこともない色だった。
 よく見ておこうと、私が眼を凝らしたその瞬間、それは閃光を放って爆発し、光のかけらが霧の中に飛び散った。兵士たちは一目散に木立ちに逃れたが、私は一歩も動けなかった……」
 爆発のあと、消滅した霧の中から、謎の機体が姿を現わした。

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「目の前に、突然巨大なピラミッド型の物体が出現した。

 

ピラミッドの頂点で、爆発した光の球と同じ赤い光が輝いていた。本体は虹色に光るパールホワイト。しかし、ねじれたりゆがんだりして、物体の形をはっきりとらえることができなかった。その物体の基底部には鮮明に光るコバルトブルーの光源が並び、その下に黒く見えたのは着陸装置のようだ。箱や、パイプや、奇妙なコードのようなものが、機体をびっしりと覆っていた……」
 やはり、兵士たちは恐怖に支配されていたのかも知れない。

 

そう、銃の引き金を引くことすら忘れさせるほど異様な物体の出現に……。
 異変は80年12月25日、クリスマスの夜に始まった。

 

ポルトガル北部からドイツ、そして英国南部に渡って、異常なスピードで飛行中の未確認飛行体が目撃されたのだ。

 

同時に、ワットンにある英国空軍のレーダーも飛行体の動きを捉えていた。

 

ところが、飛行体はサフォーク州のレンデルシャムの森付近にさしかかったところで、突然、レーダーの画面からふっつりと消えた。 

【ウォーレンが語る発光体着陸事件の隠された真相】

 その夜、英国南部一帯で謎の飛行体の目撃者が続出している。

それは、明らかにレーダーが捕捉した謎の飛行体の出現と重なっていたが、27日付けのタイムズ紙は、次の空軍見解を発表しただけだった。
「木曜日(25日)の夜、数百名の人びとが英国各地で目撃した発光体は、流星であるとみてほぼ間違いないだろう」
 一方、この事件に興味をもったUFO研究家たちは、基地の米兵たちを介して驚くべきウワサを耳にした。
「レンデルシャムの森にUFOが不時着、米兵が故障したUFOの修理を手伝った」
 さらに、英国空軍がUFOの動きをレーダーで捉えていた、という情報をつかんだ彼らは、さっそく空軍に情報公開を迫ったが、何もない、という返事だった。
 ところが、事件発生から2年ほどたった83年、事態を決定的に変えてしまう人物が登場したのだ。

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ベントウォーターズ基地の元空軍警備兵、アート・ウォーレス(ラリー・ウォーレンが当時使っていた偽名)と名乗る謎の男が登場し、事件の驚くべき全容を語り始めたのである。
「自分は40人からの兵士たちとともに、着陸したUFOを間近に目撃した。現場では、兵士たちによって写真や映画が撮影されていた……」

※月刊『ボーダーランド』97年9月号より抜粋

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退役後のホルト中佐、語る(Rendlesham Forest UFO case -7)

2012-07-03 19:58:43 | UFOの研究(信憑性が高いもの)

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ホルト中佐は1992年6月、退役した。

彼は軍務に28年間ついたが、化学、経済学、経営学を修めた人物でもあり、航空軍団幹部大学校、国防工科大学校、そして飛行隊士官学校を卒業している。

東南アジアでの従軍で何度か軍表彰を受けているし、ベトナムからアメリカ人捕虜を連れ戻す任務にも従事したことがある。

1980年、米空軍司令部から、イギリスのベントウォーターズ基地に副司令官として転任し、1984年には同基地の司令官に昇進した。

その後は、朝鮮半島とベルギーに赴任。

退役前は、アメリカ国防総省の監査理事会長を務め、軍の大部分を俯瞰できる立場にあった。
 1994年7月31日、彼はイギリスへ帰り、ロンドンで『ウィークエンド・テレビジョン』に出演し、リーズの町ではUFO研究機関クエスト・インターナショナルの依頼を受けて、事件について知っていることを発表した。彼はこう説明した。

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↑ウッドブリッジ空軍基地(現在は閉鎖されている)
「1980年当時、ウッドブリッジ基地は戦略上重要なNATO基地だった。

ウッドブリッジには事件当時、米軍が駐留していた。

事件は1980年12月25~27日に起こった。警備兵のバローズとパーカー(これは本名)は滑走路の端に、赤青白の光があるのを目撃した。

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公式記録はいっさい作成されなかったが、ロンドン・ヒースロー空港のレーダー係員は二つのレーダー目標をスクリーン上にしっかり捕捉していた。

3名からなるパトロール隊が偵察のため森に入ったが、無線が支障をきたした。3名(ペニストン、バローズ、カヴァナサック)は、『製造されたことは明白だが正体不明の物体』を目撃した。
ペニストンとバローズはその物体に接近した。

二人の証言によれば、物体はピラミッド型で高さ約3メートル、そして上端が赤、下端が青く光っていた。森のなかを漂いながら動いていたが、三本の着陸脚があった。

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三名は物体を追跡して森のなかを一時間半ほど動き回った。

その追跡のあいだに、軍の捜索隊と合流した。

捜索隊は地面に三つの痕跡を発見した。

それは約三メートルずつ離れていた。

周囲の樹木は高さ7.5メートルのところが一様に傷ついていた。

その後、兵士たちは基地に戻った。

 二日後、エングランド少尉からUFO再出現の連絡があり、前述の出来事(テープ録音されている出来事)が起こった。

 

注目すべきは、エングランド少尉の証言だ。
『あの物体は太陽のように明るかったが、中心は暗く、全体に楕円形をしていた。われわれは物体を二分間ほど見ていた。それは五つの光に割れたあと消えた』

 

ある宇宙物理学者は農家の近くで、通常の25倍の放射能を検出している。

 

フィルムは二本製作されたが、残念ながらそこには重要なものは映っていなかった。

 

光が消えたあと、楕円形の物体が二つ目撃された。

 

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その物体は猛スピードで動き、地面に光を放っていた。

 

何秒後かに、一つの物体が私の部下の方向へ飛んできた。
私はこの出来事を自分の個人カメラで写していた。

 

翌日、私は事件の詳細を上官に報告した。

 

司令部はこの一件をイギリス側の担当案件と判断した。

 

イギリス国防省も私との会見を望まなかった。

 

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私が例のメモランダムを書いたのは、モアランド少佐の勧めがあったからだ。

 

メモランダムはイギリス政府宛に送付されたが、興味深いことにイギリス政府は関心を示さなかった。

 

公式製作されたフィルムも、その頃行方不明になった。
事件の数時間後に、登録標識のないC141大型輸送機が一機、ウッドブリッジ基地に到着した。

 

(管理人注:「放射能特別防護部隊」だったといわれている)

 

(当時)私はその飛行機の目的を知らなかった。

 

機には特殊部隊が乗っていて、部隊は森のなかに消えた。

 

米軍の特殊部隊が通常は登録標識のない飛行機で移送されることは、軍の資料から分かっている。

 

その一隊が極秘の任務に就いていたことからすれば、公式機関がどこもこの事件に関心をもっていないなど、私には思いも寄らないことだ。

 

(UFO否定派として反論していた)クラスやリドパース、スチュアート・キャンプベルらの灯台説は明白に否定する。

 

私や兵士たちはバカではないから、何メートルも離れていないところにいる飛行物体と、灯台の明かりや火球(流星)、衛星墜落の残骸の区別くらいはできる」 

(続く)

※『UFO あなたは否定できるか』(ヘルムート・ラマー/オリヴァー・ジドラ著、畔上司訳、文藝春秋)第七章より抜粋

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テープ、メモが公開されて(Rendlesham Forest UFO case -6)

2012-07-02 19:28:21 | UFOの研究(信憑性が高いもの)

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「国防省はその事件にはまったく関心がない」
 もし本当に英国防省が無関心だとするなら、テロリストとか敵のスパイは心置きなく(スタジアムで使うような)人工照明を使って軍事施設を脅かせることになる。

また別な回答にはこうあった。

「ホルト中佐のメモランダム以外には何も所持していない。だからそれ以外のことは知らない」
 だが興味深いことに、これを回答したまさにその同じ部署が、中佐のメモランダム公表以前の約三年間は、そのメモランダム報告書の存在すら否定していたのだ。
 中佐のメモランダムが公表されると、英米の新聞に反応が現れた。

大半の記事は、その間に広まった噂、つまり「軍関係者はレンドルシャムの森で、小柄でグレイの地球外生命体とコンタクトしていた」とする噂を掲載していた。
 1995年8月、イギリスUFO研究協会(BUFORA)の第8回国際会議がシェフィールドで開かれて、その席上、UFO研究家のピーター・ロビンズが軍側の証人ラリー・ウォーレン(当初、仮名アート・ウォーレス)を紹介した。

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その場でウォーレンは、自分をはじめとして兵隊たちが森のなかへ入っていった模様を報告した。

要約するとこうなる。
「われわれは一つの球体が爆発しているのを見た。またそれとは別に、一つの円盤が森のなかの空き地の上空に浮かんでいて、周囲を軍人たちが取り巻いていた。私は気絶した。意識が回復してみると、私は汚れたブーツを履いて、板張り寝台に横になっていた」
 ウォーレンはそののち逆行催眠を受けて、こう述べた。


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「その円盤から出ている一本の光線を伝って、小柄でグレイの生命体が何人も出てきて、基地司令官ウィリアムズ将軍に近づいていった。将軍もコンタクトを希望していたのだ」


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 ひどく不気味なこの第三種UFO近距離遭遇の噂は、すぐさまUFO否定論者たちの耳に入り、分析が始まった。

イギリスのUFO否定論者で宇宙ジャーナリストのイアン・リドパースはテレビ・ドキュメンタリー番組のなかでこう主張した。
「兵士たちはオーフォード岬の灯台の明かりをUFOと見まちがえたのだ。地面の圧迫痕はウサギがつけたのだろう。そして放射能値は、ふだんでもその一帯は数値が高いのだろう。樹木の傷は木こりの目印だろう。また、その後何日か続いた光の現象は隕石だろう」
 だがリドパースは、森のなかに表面が金属的な物体があったとするホルト中佐のメモランダムには詳しく触れなかった。

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タイムズ紙などの新聞は、このリドパースの説明に満足の意を表明した。

一方、アメリカのUFO否定論者フィリップ・クラスは、こう主張した。
「兵士たちが目撃したのは、一九八〇年一二月二六日にイギリス上空で燃えながら墜落していったソ連の衛星、コスモス746号の破片だ」
 またほかにもF-117ステルス戦闘機が緊急着陸したとか、無人の原子力推進の試験機が墜落したとか、空軍がUFO目 撃をでっち上げて、それまでの飛行機関連の失敗をもみ消そうとしたとかいう説も浮上した。

だがこうした解釈はどれもこれも、ホルト中佐のメモランダムに記載の事実を十分解明してはくれない。

UFO事件の場合には往々にして、「ありえないことは、あってはならない。したがってそれは自然現象でなければならない!」という結論になりがちだ。
 事件調査はまだ終了したとは言えない。

1984年1月、UFO研究家ランドルスはドナルド・モアランド少佐の口から「ホルト中佐のその録音テープは1981年以降、存在していた」ときいたが、イギリス国防省はもちろん、そうした録音テープの存在を否定した。
 しかし1984年7月、ベントウォーターズ基地の元司令官サム・モーガン大佐が、アメリカ国内の基地に転任になり、みずからテープ所持を肯定しただけでなく、そのテープをダビングしてランドルスとストリートに送付してきたのである。

同テープに録音されていた時間はトータルで約18分だったが、録音開始から終了までに3時間以上が経過していた。テープの3分の2は着陸痕の調査、残り3分の1は兵士たちの証言だったが、目撃者の何人かは「あの夜間捜索ではもっと長い間録音がおこなわれた」と言っている。
 UFO研究センター(CUFOS)からの依頼でテープ分析をおこなった無線技師のロバート・H・コディントンは、「最後の3分の1の録音は、前のほうと質的に差がある。

ダビングの際に何らかの操作がなされたのかもしれない」と言った。

いずれにせよ、そのダビングテープが当夜の目撃全体をカバーしてはいないことは確かである。
 事件に関与した兵士のうち何人かは、UFO撮影はムービービデオと写真カメラでおこなわれたと主張しているし、ホルト中佐もその双方でなされたと言っている。だがそうした重要な証拠は、もし存在しているとしても、アメリカ政府からまだ存在を確認されていない。

証人の大半は、フィルム一本が撮影されたことを否定していないが、真相究明に多大な貢献をするにちがいないそのフィルムが、いまどこにあるのか、そしてなぜ隠されているのかは疑問のままである。

※『UFO あなたは否定できるか』(ヘルムート・ラマー/オリヴァー・ジドラ著、畔上司訳、文藝春秋)第七章より抜粋

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ホルト中佐のメモランダム(Rendlesham Forest UFO case -5)

2012-07-01 14:58:46 | UFOの研究(信憑性が高いもの)

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ホルト中佐とその部下たちは、レンデルシャムの森で自分が今見ているもの、見ている現象がとても現実とは思えず、当惑していた。

第三者に説明するすべがない、とも。

ホルトは、基地副司令官として森で起きた出来事を米軍およびイギリス国防省に報告する義務があったが、その文書は詳細な調査を行った後に出される「調査報告書」ではなく、備忘録的なものであった。

そのため、後日の研究結果では日付に間違いなどがあった事が判ったが、ともあれホルト中佐は、この事件をどう説明すればよいのか、相当悩んだようである。

この報告書は3部構成になっており、個々の兵士の聞き取り調査も交えて作成されてはいるが、詳細はかなり割愛されており、その時点でホルト中佐が知りえた事実だけが報告されている。

※以下『UFO あなたは否定できるか』(ヘルムート・ラマー/オリヴァー・ジドラ著、畔上司訳、文藝春秋)第七章より。

1.

1980年12月27日早朝(午前3時頃)、アメリカ空軍の警備兵二人がウッドブリッジ空軍基地の裏門の外に、異常な光をいくつか目撃した。

航空機の墜落か不時着と思った二人は、調査のため裏門を出る許可を求めた。

当直の司令官は、三名の警備兵に徒歩で偵察に向かうことを許した。

彼らは、森のなかで奇妙な光体を一つ見たと報告してきた。表面は金属のようで、形は三角形、直径は二~三メートル、高さは約二メートル。

森全体を白い光線で照らしていた。上端は赤く、下端は青く光っていた。その物体は浮かんだり、着陸脚で立っていたりした。

接近してみると、物体は樹木のあいだを進路変更して姿を消した。

同時刻に近くの農家の家畜が何頭も狂乱状態になった。

物体は約一時間後に裏門近くで目撃された。


2.

物体が着陸しているのが目撃された地点で、翌日、三つの圧迫痕が発見された。

いずれも深さ7インチ、直径1.5インチだった。

その夜(1980年12月29日)、その一帯で放射線測定が実施された。

三角形をした圧迫痕の各々とその中心で、最高0.1ミリレントゲンのベータ/ガンマ線が測定された。

近くにあった一本の木は、圧迫痕に向いた面で中程度の値(0.05~0.07)が検出された。


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3.

その夜遅く、太陽に似た赤い光が一つ、樹木のあいだで目撃された。

動き回って、点滅していた。

あるとき、輝く小片が飛び出したように見えた。

そして五つの白い物体に分裂して消えた。

その直後、星状の物体が三つ、空に目撃された。

うち二つは北の方角、一つは南だった。

いずれも地平線から上約10度にいた。三つは高速で鋭角的に動き、赤緑青の光を放っていた。

北の二つは、8~12倍の双眼鏡で見ると楕円形に見えた。

その後三つともまん丸になった。

北の二つは、一時間かそれ以上滞空していた。南の一つは二~三時間見えていて、ときどき光線を放っていた。私を含めて大勢の人が、以上の2、3に記した動きを目撃した。

                   チャールズ・ホルト米空軍中佐。空軍基地副司令官

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 以上のホルト中佐のメモランダムは、事件から17日後にイギリス国防省に送付されたものだが、同国防省の担当官はこの文書が公開される時点まで、事件についての資料とか書類はいっさい所有していないと言い張っていたのだ。

このメモランダムの公表後、UFO研究機関クエスト・インターナショナルのマーク・バーゾルは、ベントウォーターズ基地とウッドブリッジ基地の広報を担当するヴィクター・L・ウォージンスキー大尉宛に、事件についてほかに情報はないか、もしあればそれを入手できないかと問い合わせてみたが、同大尉からの返事は以下のとおりだった。

「拝啓 バーゾル様。私は、そのUFO目撃とやらを証明あるいは反論する立場にないのではないかと存じます。公式調査はいっさいありませんでしたので、参考資料もございません。アメリカ空軍は今後もいっさいUFO目撃を調査しませんし、過去何年間もまったく調査していません。つまり、何が起こったかもしれないにせよ、われわれにはそれに関して何ら公務上の関心がありませんし、その光体が基地外部で目撃されたとなればなおさらです。これ以上あなたにお知らせできるような情報は存在しません」

 

 ホルト中佐のメモランダムを読むと、現場一帯で放射能が検出されたこと、そして地面の痕跡が詳しく調査されたことが分かる。

 

となれば、この事件に関する書類がこのメモランダムだけのはずはなかろう。

 

「アメリカ空軍などの政府機関はブルーブック計画終了後、もういっさいUFO調査には関与していない」とは、よくきかされるセリフだが、これは事実に即していない。

 

なぜなら、ブルーブック計画終了後に発生したUFO事件に関する書類がいくつか、情報公開法に基づいて公表されているからである。

 

 

(続く)

 

 

 

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