
スーパーマーケットが全国を凌駕する以前には、大根の種類だけでも数十種もあったと聞く。
大量流通時代とともに進んだ規格化は、自然の恵みとは無縁のはずの工場生産的発想が、大資本投下のもとで食産業を淘汰したことによって、私たちの食卓は国際化、多国化したことで、それまで身近だった季節や地域性の強い野菜の種類は激減したという。
「京野菜」などと呼ばれる野菜たちは、そういった淘汰の嵐の中で、ひたすら抵抗し、頑固に変化をかいくぐって生き延びてきた、数少ない“幸せな野菜”たちなのだ。
こういった野菜は、頑固で保守的な人々によって守られた。
「保守的」という言葉は一見、多様性を否定しているかのようだが、こうした人々の行為が、食の多様性を守る結果につながっている。
古いことを守ることは、決して「保守」ではなく「保存」、保ち存在するということだとわかる。
このところ地域性の強さを売り物にした産直食品が人気をあつめているのは、人間が本能的に「多様性」の絶滅への危機を感じはじめているせいだと思える。
日本人は、もともと画一的な民族だというようなことがよく言われるが、本当にそうなんだろうか。
もともと、人という存在そのものが画一的なパーツで構成されているのだから、画一であるともいえるが、一卵生の双子でもない限り(一卵生の双子でも・・・だね)同じ顔は無いし、人格は全て固有である。確かに、日本人の外観は、欧米人と比べて一見画一的だとは思う。しかしそれは髪の毛の色、目の色、肌の色が、決して際立ってはいないというに過ぎない。
ところが最近、確かに深刻な画一的な価値観や思考の単純化が感じられて仕方ない。日本人は、モノの画一化が進展して、心の画一化までしてしまったように思えることが多くなっている。
後になって後悔することは多いが、振り返れば、命の根源といえる食の分野での規格化が始まったその時が、実は私たち自身が多様性を捨てた時だったのではないか。
近頃、若者の画一的な思考や志向、が取りざたされるが、生まれたときから地域性や人間関係での交流が閉ざされた町で、同じような家にすみ、規格化された食べ物を食べ、画一的な教育を受けて育てば、画一的な思考や志向になってしまうのも当然ではないか。
多様な違いがぶつかり合い、ユニークさあふれる中で、ある時は競い、またある時は調和をとりながら生き抜いてゆく力こそ、今、最も求められる命のキラメキではないか。
食物にとどまらず、私たちの暮らしの周辺にあふれている画一性は、私たち自身の精神に潜む画一的な価値観が形となって現れているのに他ならない。
自分という可能性を見つめ直し、異質さの中に新しい社会を認めてゆく。現代社会が直面している問題の多くは、このことに気づけば変わってくるのではないかと思う。
大量流通時代とともに進んだ規格化は、自然の恵みとは無縁のはずの工場生産的発想が、大資本投下のもとで食産業を淘汰したことによって、私たちの食卓は国際化、多国化したことで、それまで身近だった季節や地域性の強い野菜の種類は激減したという。
「京野菜」などと呼ばれる野菜たちは、そういった淘汰の嵐の中で、ひたすら抵抗し、頑固に変化をかいくぐって生き延びてきた、数少ない“幸せな野菜”たちなのだ。
こういった野菜は、頑固で保守的な人々によって守られた。
「保守的」という言葉は一見、多様性を否定しているかのようだが、こうした人々の行為が、食の多様性を守る結果につながっている。
古いことを守ることは、決して「保守」ではなく「保存」、保ち存在するということだとわかる。
このところ地域性の強さを売り物にした産直食品が人気をあつめているのは、人間が本能的に「多様性」の絶滅への危機を感じはじめているせいだと思える。
日本人は、もともと画一的な民族だというようなことがよく言われるが、本当にそうなんだろうか。
もともと、人という存在そのものが画一的なパーツで構成されているのだから、画一であるともいえるが、一卵生の双子でもない限り(一卵生の双子でも・・・だね)同じ顔は無いし、人格は全て固有である。確かに、日本人の外観は、欧米人と比べて一見画一的だとは思う。しかしそれは髪の毛の色、目の色、肌の色が、決して際立ってはいないというに過ぎない。
ところが最近、確かに深刻な画一的な価値観や思考の単純化が感じられて仕方ない。日本人は、モノの画一化が進展して、心の画一化までしてしまったように思えることが多くなっている。
後になって後悔することは多いが、振り返れば、命の根源といえる食の分野での規格化が始まったその時が、実は私たち自身が多様性を捨てた時だったのではないか。
近頃、若者の画一的な思考や志向、が取りざたされるが、生まれたときから地域性や人間関係での交流が閉ざされた町で、同じような家にすみ、規格化された食べ物を食べ、画一的な教育を受けて育てば、画一的な思考や志向になってしまうのも当然ではないか。
多様な違いがぶつかり合い、ユニークさあふれる中で、ある時は競い、またある時は調和をとりながら生き抜いてゆく力こそ、今、最も求められる命のキラメキではないか。
食物にとどまらず、私たちの暮らしの周辺にあふれている画一性は、私たち自身の精神に潜む画一的な価値観が形となって現れているのに他ならない。
自分という可能性を見つめ直し、異質さの中に新しい社会を認めてゆく。現代社会が直面している問題の多くは、このことに気づけば変わってくるのではないかと思う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます