北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

真塩くん

2015-05-04 04:21:42 | 日記
真塩吉一君と言う名前です。戦後の一時期、東京の亀戸で「冥土の正坊」(正確な漢字は

不明。)と呼ばれた男気のある人の、たったひとりの長男でした。新橋駅近くの今はもう

建物もない「東京タイムズ」と言う新聞社の、一晩置きに夜の8時から朝の5時までやる

発送を手伝うバイトで一緒でした。新橋から、酔客のたくさん居る夜の銀座通りを、発送

のトラックの荷台に乗って、日劇ミュージックホール(まだ建っていた。)の横の道路に面

した、石本喜久治設計の朝日新聞本社(当時)の横っ腹の凹みの、馬橋コースとか鎌ヶ谷コ

ースとかの、朝日の配送コースの新聞の山に、自分達の「東京タイムズ」(薄い)を乗せて

いきます。(その頃、僕の同級生は上の朝日ホールで村野藤吾さんの講演会を聞いたりし

ていたのかな? 聞き手は、今は俳優の長谷川博己さんのお父さんと言ったほうが判りや

すいかも知れない長谷川堯さん?) それで、1ヶ月バイト代は6万円でした。朝の5時に

なると、地下の社員さんも利用する、新聞のインク臭いのする風呂にはいって、仮眠室で

昼過ぎまで寝る事も出来ました。


真塩くんは、ライブハウスにバンドを見に行くのが好きで、よく「ぴあ」を持っていて、

ある時、渋谷に一緒に行こうと言うのです。確か、センター街を入っていって、少しした

左側に、1階がパチンコ屋、2階と3階? が「ロンドン」だったかのピンサロ、そして

4階? がお目当てのライブハウスで、名前は「屋根裏」。(建物は、そんなに大きくはな

かった、、。でもみんな跳ねるから、良く床がもったなぁー、、、。)


そして、その時が僕の初めての、RCサクセション。


いきなり、清志郎が出てきてビックリ、もうその頃すでに化粧していた、、、狭いライブ

ハウスなのに、音がデカイ、、、。下がピンサロとパチンコ屋だから、問題ないって言え

ば問題ないのかな、、、?「トランジスタラジオ」も最後の「雨上がりの夜空に」も初め

て聞いた、、、。(出るときは耳がおかしくなっていた、、、)それからは、久保講堂にも

(「子供バンド」も出ていた。)日比谷の野音にも、真塩くんに連れられて行きました。


村上春樹を読むように教えてくれたのも真塩くん。『風の歌を聴け』と『1973年のピンボ

ール』が、まだ出た頃です。


新橋のバイトの後で、日比谷の帝国ホテルの新館の地下2階の喫茶室でバイトをしていた

真塩くんに、よく会いに行きました。(ウェイター姿が凄く似合っていました。)真塩くん

は、夏は帝国ホテルの系列の、軽井沢の万平ホテルに応援に行くことがあって、(ホテル

の左側の奥に寮があった。)昼間、真塩くんがバイトしている間、僕は自転車で軽井沢の

吉村先生とレーモンドの設計した建物を、一人で探して走りまわりました。(一度だけ、

万平ホテルのテラスでコーヒーをご馳走になった、、、。)


太宰治と友川かずきと八木重吉と中上健次が好きで、「韓国からの通信」を読んでいた、

真塩くん。光州事件と全斗煥に怒って、周囲の人を笑わせるのが得意だった、、、。

50才になるかならないかで、病気でなくなりました。


神様は善き人ほど早く召してしまうのです。



真塩くんの好きだった、『エンジェル』です。




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