北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

「喪われた悲哀」と「愛されない能力」 その6

2015-09-15 08:45:03 | 日記

 三


  子供の自殺を正面から取り扱った作品ではないが、その一つの別な型を示してい

 る点でここに問題にされる作品は、誰でも知っているところのジュール・ルナール

 の『にんじん』であろう。---にんじんは、子供のいわば「自殺常習者」である。彼は

 その自ら言うところによれば二度自殺しようとした。一度は---彼の分別くさい言葉

 で言えば---「子供騙しに」井戸の釣瓶の水の中へ首を突っ込んで、息の根の止まるの

 を待ったが、不幸にして(?)母親に見附けられてしまった。そして二度目には、今度

 は「大真面目」に首を縊ろうとしたのだ。納屋の乾燥部屋に上がって、そこの大きな

 梁に綱を結びつけ、その輪の中へ首を入れてもう少しでぶらさがろうとした。が、こ

 の時も彼を呼ぶ声が聞こえて止めてしまったのである。

  この自殺を彼に思いとどまらしめたわけをにんじんが述べている箇所は、同時に

 その自殺の動機の所在をも示している箇所だから、ここに採録しておく方が都合が

 よい。(戯曲『にんじん』)


 ルピック氏  (ほっとして)そこで降りたんだね?

 にんじん   うん。

 ルピック氏  やっぱし、お母さんが命の親じゃないか。

 にんじん   お母さんが呼んだんならもうあの世に行ってただろう。パパだった

        から降りたんだ。呼んだのはパパなんだ。

 
 この会話のあとは、不仕合わせな夫であるルピック氏と不仕合わせな子供である

 にんじんとのいつ読んでも涙を誘う和解の場面である。その先に、にんじんがその

 母親を「一体何て女だろう」と叫ぶのを聞き咎めた父親に対する彼の切々たる答えが

 ある。


  「お母さんだからって特別に言ったんじゃないよ。もちろんお母さんさ。それが

  なんだ。僕を可愛がってくれるか可愛がってくれないかが、大事なことなのだ。

  ところが僕を可愛がってくれないんだから、母親だなんてったって、なんの意味

  もありゃしない。情がなけりゃ、名前ばっかしあったって何にもなりはしない。

  母親というのはいいママのことを言うんだ。父親というのはいいパパのことを言

  うんだ。そうでなければ、なんでもありゃしない。」


 にんじんは家庭というものを次のように定義しているませた子供である。「無理な

 集まり.....同じ家に.....お互いに同情のない幾たりかの人間の。」

  ここに来て私は二ールの『問題の子供』の中にある「不幸な結婚」という一章を思い

 出した。その章で現代におけるこの稀なる教育家は何が子供を病的にするかの問題に

 答えて、「それは多くの事実について見れば、両親が不和な場合である」と断定してい

 る。「病的な子供は愛を求めている。それなのに、家庭においては愛がない。」にんじ

 んの場合には、正にこの両親の不和から作られた「愛なき」家庭の不幸な所産であり、

 同時にまたその受難であると言えないであろうか。にんじんとルビック氏との次の

 会話---


 ルピック氏  お前は生まれて来たときは、お母さんと俺との間はもうおしまいに

        なっていたんだ。

 にんじん   僕の生まれたことがパパとお母さんを仲直りさせればよかったのに

        なあ。

 ルピック氏  駄目だ。お前の生まれた時はもう遅い。お前は俺たちの最後の喧嘩

        の真最中に生まれて来たんだ。二人ともお前なんかに生まれて来て

        貰いたくなかったんだ。.....


  私は胎教の影響なるものを信じていいのかどうかを知らない。しかし母親が子供を

 欲しがらないとき、その気持ちが生まれる子供の上に何らかの作用をも及ぼさないと

 も言い切れない。欲しくない子供が生まれると、その子供は、にんじんのように引っ

 込み思案になり、反社会的になり、生を怖れる臆病な性向をもつようになるというこ

 とはありそうなことだ。その上、もう一つ、不幸な結婚生活の中にいる母親は、殆ど

 例外なく激しい偏頗な愛情をその子供たちの上に示すものである。にんじんの母親の

 場合もそれで、彼女は兄のフェリックスには盲目的な溺愛を示している癖に、にんじ

 んには冷酷な憎悪と虐待とを以って遇しているのである。

  にんじんは愛されぬひねくれた子供、いわゆる「困った子供」の模範生である。すべ

 てが定石通り行っていて、精神分析学者の喜びそうな尾篭なことまで、ちゃんと物語

 『にんじん』には事欠けていない。これらの学者は、家庭で退け者扱いされている子

 供の最初の反抗は、清潔に関する規律の無視であると言っている。寝小便をしたり、

 排便を厭がったり、あらゆる機会を利用して自分を汚くして、自分を愛していない親

 の教えや躾に反旗をひるがえすのである。------『にんじん』の中の「尾篭ながら」や

 「壷」の章は、この所説のまるで精巧な挿画のように符牒が一致していることは興味が

 ある。不幸な、愛のない家庭の波紋は、こんなところにまでその思いも寄らぬ飛沫を

 上げているのだ。この悪癖を矯正するためには、子供の懲罰ではなくて、家庭の改造

 こそが唯一の処方箋であることはいうまでもないであろう。

  愛なき結婚生活は不幸な家庭を意味し、そしてこの不幸な家庭の空気は子供にとっ

 ては精神的の死である、とニールは書いている。それが必ずしも精神的の死のみを意

 味しないことは、にんじんの自殺未遂が、そしてまた実在する幾多のにんじんたちの

 自殺がこれを示している。「愛なき」家庭は子供の自殺志願者の最も大きな貯水池の一

 つであるといわなければならぬ。




              
         「喪われた悲哀」と「愛されない能力」 その7 につづきます、、、。




  

 
 

 

  

  

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