北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

「喪われた悲哀」と「愛されない能力」 その11

2015-11-08 12:36:48 | 日記
「愛されない能力」とは、「愛されなくてもいいと思って我慢してしまう能力」なのでしょう

か? それとも本当に、バリアーか何かを張って「周囲の人々から愛されないようになって

しまう能力」か何かなのでしょうか? それとも、もともと心のどこかに冷たいものか何か

があって、「心が淋しくて貧しい(poor)」事なのでしょうか? 残念ながら渡辺一夫さんは、

あまり判りやすくは説明してくれていないのです。(少なくとも僕には、、、)

Unbeliebtheit とか la faculté de n´etre pas aimé と言われても、すいません、よ

く判んないんです、、、、。日本人って、心が淋しくて貧しいんでしょうか、、、???

(それなりに、少しは良い所も、そこそこは、ずいぶんと、あるような気もするんですけ

ど、、、違いますかねぇー、、、? 戦争に負けて70年、日本人は真面目にコツコツやっ

てきて、最近は若い人なんて、いかにもご両親が大切に育ててきた感じの、素直な感じの

良い若い人が、随分と多くなったような気もするんですけど、、、。オリンピックでも、

両親や家族が会場に来ていて、娘や息子を応援するようになった、、、昔の日本人は、必

ずしもそうではなかったような気もするんですけど、、、。)



「愛されない能力」に対して「愛される能力」について、渡辺一夫さんは次のようにも書いて

います。


  「愛される能力」を持つことは「愛して頂戴な」式な奴隷的な媚態を呈する存在に

  なるということでは絶対にない。寧ろ初めて対等になるということである。

  ただ対等になるためには「なくてはならなぬ存在」になる責任がある筈だ。



「愛」とは何か? というのは僕みたいな日本人には苦手で難しくて、むしろそれは、その

「不在」とか「欠損」とか「欠落」とかでしか感じる事の出来ない事柄なのかも知れません。

だいいち、「愛」には、たぶん、その「対象」が必要で、「対象」が何かも判らず、その「欠損」

とか「欠落」とかでしか感じる事は出来ないとなると、ますます何が何だか判りません。

(死ぬ時になって一生懸命に考えたって、もう遅いんでしょうねぇー、、、。やっぱり僕

も、心が淋しくて貧しい日本人の一人なんでしょうか、、、? 宗教心も何も無いと言っ

てしまえば、それまでか、、、ちなみに我が家は無宗教の半強制的な?国家神道、、、、

でも、どこの氏子でもない、、、葬式に坊さんは呼ばないからお経もなくて献花だけ、、

いまさら「武士道」とか言われても、困りましたねぇー、、、。)



「心が淋しくて貧しい」設計士が建築を設計しても、「心が淋しくて貧しい建築」しか出来な

いんでしょうか? 「心が淋しくて貧しい」設計士だらけで、「心が淋しくて貧しい建築」がた

くさん並んだら「心が淋しくて貧しい街」にしかならないんでしょうか? (みなさんの周囲

の街を思い浮かべてみて下さい、、、。特に最近の郊外の新しい街、バイパス沿いとか、

新しく造成された分譲地とか、、、、。設計士の側の問題だけではないんでしょうけど、

それを良しとするのか、何も感じない人々も、いないこともないような訳で、、、。)




           「喪われた悲哀」と「愛されない能力」 その12 につづきます。


















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