不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

一条戻橋

2018-05-09 12:14:40 | 日記
わたしが、いろいろ書き込みをしてしまっている京都の地図です。

上のほうに赤鉛筆で『一条戻橋?』と書いてあります、、、。




平安京は、この図の大内裏の西側にさらに1/3くらいありますので注意してください。




一条と二条の間隔は、他よりも2.5倍くらいあって、一条戻橋は堀川にかかっているはず

なんですが、一条通と堀川小路の交差にかかっていたのか、それとも、その南の土御門通

と堀川小路の交差にかかっていたのか、良く判んないんです、、、。(名前も、もしかし

たら『土御門橋』だったかも知れないんです、、、。)



でも『女大工』が一条戻橋の近くで、『青屋大工』が壬生寺の近くって事は、両方とも

堀川の近くで、今だったら2kmちょいしか離れてないんです、、、。もともと堀川は

北山の木材を賀茂川経由で平安京の中心部に直接運搬するための人工河川だったようです

から、大工さんがたくさん住んでいたとしても、不思議でも何でもないんですけど、、。





一条戻橋絵図 (左の橋が一条戻橋だそうです。左が堀川の上流のはずです。右から流れ

込んできている川は小川という川で良いんでしょうか?でも何だか小川の方が賀茂川と

繋がっているような気もするんだけど、、、?)








千利休の屋敷は、一条戻橋の100mちょと北西で、自害させられたあとの利休の生首は

一条戻橋の袂(たもと)に晒されたとされています。利休の屋敷のすぐ近くには、陰陽師の

安倍晴明の晴明神社がありますし、




平安京オーバレイマップ https://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/theater/html/heian/ の一条戻橋の付近です。








Google Map







もうちょっと上の現在の芝薬師町のあたりには無縁所(アジール)としての清玉上人の阿弥陀寺

(時宗らしい)があり、さらに北の船岡山の裏側の蓮台野は、『馬捨場』ならぬ『人捨場』だった

と言うのですから、この堀川の西側一帯は室町から戦国・江戸時代をとおして一体どんな場所

だったんでしょうか、、、?


少なくとも


 座頭 舞々 猿楽 陰陽師 壁塗 土鍋師 鋳物師 辻目暗  

猿曳 弦差 石切 土器師 放下師 笠縫 渡守 山守 青屋 坪立 筆結

墨師 関守 獅子舞 蓑作り 傀儡師 傾城屋 鉢叩 鐘打


の中の、陰陽師と青屋は住んでいて、おそらく傾城屋さんもあったでしょうから(『島原』

や『角屋』の前にも、それなりの施設はあったかも知れないわけで、、)、いろいろな職人

・芸能の人々の無縁所(アジール)センターみたいな場所だったのではないでしょうか?

(この場合の「職人・芸能」の意味合いは、現在のそれとはだいぶ違うので注意。)





昭和までの一条戻橋





この写真の下のほうに見える護岸の石垣は小川のものでしょうか?









紫野大徳寺塔頭高桐院 伝千利休屋敷 書院『意北軒』






あくまでも「伝」です、、、。




追記  矢貫隆さんの2007年の文章です。


    意外だが、京都は自転車の街だった。この地でタクシー運転手となって間もない頃、

    客を求めて市内を流しながら自転車屋さんの数が妙に多いことに気がついた。

   (中略)

    京都では、自転車がそれだけ多く利用されているということなのだ。

    圧巻は、夕方から夜にかけての退社時刻である。東西を結ぶ三条通りは、どうした理由

    からか自転車ツーキニストたちのお気に入りの道らしい。河原町とか烏丸といった市の

    中心部からの多くの帰宅者たちが、この道を利用する。南北を結ぶ幹線道路、堀川通り

    の信号が変わったとたん、それこそ怒濤の勢いで三条通りから自転車の大群が堀川通り

    を横断していくのだ。

    「中国みたいやな?!」

    まだその光景に不慣れだったころ、京都の友人にそう言って驚いたことがあった。



  青屋大工も、女大工も、利休も、新撰組も、今の時代の人々も、堀川を朝に西から東に

  渡っていたし、渡っているし、夕方になると東から西に渡っていたし、渡っている、と

  いう事なんでしょうか? 地下のジェーン・ジェイコブズさんに教えてあげたい、、、。



                  伝馬町牢屋敷と市ヶ谷監獄 その5 に戻ります













コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青屋大工と女大工

2018-05-09 12:13:47 | 日記



休憩を入れます。前の記事の『証文』の一部の、2段目、右から3つ目に『青屋』とあり

ます。『青屋』って何でしょうか? (となりの『坪立』はバクチ打ち?)

  
 一、 座頭 舞々 猿楽 陰陽師 壁塗 土鍋師 鋳物師 辻目暗  

   猿曳 弦差 石切 土器師 放下師 笠縫 渡守 山守 青屋 坪立 筆結

   墨師 関守 獅子舞 蓑作り 傀儡師 傾城屋 鉢叩 鐘打





沖浦和光さんと三國錬太郎さんの対談に『青屋』が出て来ます。


   
    沖浦和光 (おきうら かずてる) さん


    



    三國錬太郎 さん


     
     



    前略


 三國 私の祖父にあたる人は棺桶作りを生業(なりわい)としていたことは確かなんで

    す。当時は棺桶作りというと、死穢(しえ)に関わるということで、あまり良民

    社会には受け入れられない仕事として、賤視(せんし)される社会的傾向があり

    ました。おそらく近世の時代からそうだったんでしょう。

 
 沖浦 関西では、平人大工と区別されて「青屋(あおや)」大工(牢獄大工)と呼ばれた

    賎民系の大工がいました。京都を中心に文献資料の研究はかなり進められてい

    ます。

 
 三國 関東・東海地方はどうですか。その「青屋」というのはやはり賎民の範囲に含

    まれるんですか。


 沖浦 「青屋」がなぜ賎民視されたのか、諸説あるんですが、京都や奈良では、藍

    (あい)の丸染めをやる染色業者が、中世からと深い結びつきがあるとい

    うので賤視されていたようです。


    後略



青屋大工(牢獄大工)は、江戸時代などに、寺社や一般建築の施工をする大工などに対し

て、牢獄・獄門台・芝居小屋(芝居小屋が含まれている事に注意!お祭りの設営や屋台・

出店などはどうだったんでしょうか、、、?)などの建物を手掛けた大工または大工集団

の呼称のようで、京都では清水坂の周辺か、壬生寺の周辺に住んでいたとされています。






『女大工』は、井原西鶴の「西鶴諸国ばなし」の中に出てくるのです。



  


  道具箱には錐(きり)・鉋(かんな)・墨壷(すみつぼ)・曲尺・顔も三寸の見直し、

  中低(なかびく)なる女房手足逞しき、大工の上手にて世を渡り、一条小反橋に

  住みにけるとなり。



『顔も三寸の見直し』は、「顔の造作は9センチくらい修正すれば問題ない」くらいの

意味で、『中低(なかびく)なる』は、「鼻が低い」の意味だと思うんですけど、江戸

時代はすでに鼻は高いほうが美人とされていたんでしょうか?『一条小反橋に住みにけ

る』は、現在の「一条戻橋(いちじょうもどりばし)の近くに住んでいた」の事で、宮中

の女性の部屋の修理・修繕の仕事をするのに、御所が近くて好都合だったようなのです。





                           一条戻橋 につづく





追記 『顔も三寸の見直し』は、今ならセクハラなので気をつけましょう。






                         
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伝馬町牢屋敷と市ヶ谷監獄 その4

2018-05-02 13:46:43 | 日記



でも写真の人は、幕末に関西方面から養子縁組で来てくれた13代目で、鎌倉近辺出身の

初代は、最初に江戸幕府が始まる前に、『由緒書』と『証文』のやり取りをしていると、

主張しているみたいなんです。



 『由緒書』の一部


 一、御仕置物、御島者、晒もの、磔、火罪、獄門、鋸挽、文字雕、耳鼻剃、切支丹、

   鍋銅等御座候、六十五年の前石谷将監様神尾備前守様御奉行の時、武州鴻巣村

   磔三人被遣候に付、御評定にて被仰付、御奉行の下置検使共私先祖被為仰付候

   に付、御伝馬申請、長道具為持相勤申候、此外在々支配の内、一代壱度も相廻

   り改候節も長道具為持申候事




 『証文』の一部

  
 一、 座頭 舞々 猿楽 陰陽師 壁塗 土鍋師 鋳物師 辻目暗  

   猿曳 弦差 石切 土器師 放下師 笠縫 渡守 山守 青屋 坪立 筆結

   墨師 関守 獅子舞 蓑作り 傀儡師 傾城屋 鉢叩 鐘打

 
   右の外は数多付有之、是皆は其上たるへし、此内盗賊の輩はとして

   可行之、湯屋風呂屋るい、傾城屋の下たるべし、人形舞は廿八番の外たるべし


 

  (ちょっと一部におどろおどろしい表現のある文章ですが、『由緒書』の一部は、

  自分たちの主張する、昔からの自分たちの『業務範囲』で、『証文』の一部は、

  鎌倉時代からすでに、自分たちが認められているとされる『業務範囲』を主張

  しているものと思います。残念ながら、原文は画像検索してみたのですが判り

  ませんでした、、、。)





この中で、猿楽 猿曳 獅子舞 傀儡師 は広く芸能(及びその興行)に関連する

『勧進場』でしょうか?




では『旦那場』に関連するものどれなのでしょうか?

   

どうやら『旦那場』のいちばんの主たる業務は、斃牛馬の取得と活用および再活用のよう

だったらしいのですが、、、
    

    

                          これは長野県塩尻の馬捨場跡




この□印(馬捨場)として、何ケ所も書き込まれている図が『職場図』と言って『旦那場』

図と思います。


    




ですが、どうやら、お城のいろいろな雑用や(清掃とか、、、)、牢屋敷の直接の管理や

雑用も『旦那場』の業務範囲だったようなのです、、、。



同じ業務範囲なのですから、出入り口が同じ『埋門』でも不思議ではないのかも知れませ

ん、、、。




2014-12-31の記事『府中刑務所その2』に


   網野善彦さんは、刑務所は「アジール」で、その中はある意味での「芸能の世界」

   であると書いていました。(この「芸能の世界」は難しい、、、。)


と書きましたが、『旦那場』も、広く芸能(及びその興行)に関連する『勧進場』も、元は

携わっている人が同じなんですから牢屋敷や刑務所の中が「芸能の世界」になってしまっ

ても、不思議でも何でもないのかも知れません、、、。





                   伝馬町牢屋敷と市ヶ谷監獄 その5 につづく










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伝馬町牢屋敷と市ヶ谷監獄 その3

2018-05-02 13:45:52 | 日記


新潟県立文書館にある『桶師匠から弟子へ旦那場を譲る』の証文とされる文書です。







延享元年(1744)に、現在の上越市吉川区(当時の平等寺村)の桶屋の師匠の彦次右衛門

という人が、弟子の久右衛門が桶作りの修行の年季も明けて一人前の職人になったので、

自分(彦次右衛門)の『旦那場』(得意先、旦那筋、得意場)を、弟子の久右衛門に譲りま

す、という内容のようです。(でも誰に宛てた証文なんでしょうかね、、、?それにして

も江戸時代の新潟の桶屋の親方って、ずいぶんな達筆なんですね、、、。)




さて、この『旦那場』つて良く判りませんよね。得意先、旦那筋、得意場、とありますけ

れど、Web上の建築用語辞典 http://www.kenchikuyogo.com/311-ta/058-danna.htm に

『旦那場』として、次のようにあります。




   旦那(場)(だんな:ば)


  建築に精通して増改築が趣味である人など、建築主である発注者のことを敬って

 いう言葉。上得意の建築主の現場を旦那場という。職人達も各自の腕が試されたの

 で緊張した。最近では建て売りなどが増えて、建築主と職人の接触が減ったので、

 旦那という言葉も遣われなくなった。
 



今はもう、村野藤吾さんに和風建築を教えてくれた泉岡宗助さんのような『旦那さん』は

この世の中には居やしません、、、。

職人言葉なんでしょうけど、今の大工さんで『旦那仕事』なんて言う人はいないと思いま

すし、『野丁場』とか『町場』とか、仕事の種類を別けて言うようなことも、少なくなっ

て来ていると思います。


でも、それとは違う『旦那場』と言う言葉の使い方があるみたいなんです、、、。




この『旦那場』と言う本の中に

  






『旦那場』(職場または下場「したば」)以外に、『勧進場』(上場「うわば」)とか、

『草場』とか、『芝(場)』とか、『庭場』とか、いろいろな『○○場』が出てくるんで

す、、、。

(この本の中には出てきませんが『厄場「やば」』(牢屋の事)と言うのもあるみたいで

す。他にも『鉄火場』とか『やっちゃ場』とかも言いますよね。)





で、その総元締めみたいな人が、すくなくとも関八州(今の関東7都県)と伊豆半島と山梨

の東の一部と福島の白河のあたりの県南では、この人だったらしいのです、、、。(一部

の天領、直轄地は除く。)




 






                   伝馬町牢屋敷と市ヶ谷監獄 その4 につづく







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伝馬町牢屋敷と市ヶ谷監獄 その2

2018-05-01 07:41:35 | 日記



『埋門』なのですが、お城マニアの人なら詳しそうです。


日本中のお城にはほとんど必ずある、主に通用口のような用途に使う門で、おそらく不浄

のものを城内から搬出したり、またはその係りの人の出入口で、「ハレ」に対して「褻」

(ケ)のような役割の門で、本来は石垣の一部のように見えて目立たないような作りになっ

ているはずだと思うんですけど、、、。(何かの時には『埋めやすい』らしい、、、。)




大分県竹田市の岡城の『埋門』のYouTubeです。








中には立派な目立つのもあるんです。


愛媛の松山城の『埋門』






信州松本城の『埋門』。堀に架かっている橋も『埋め橋』と言うみたいです、、、。





この門と橋かな?

 



伝馬町牢屋敷なんですけど、元は区立の小学校だったらしい中央区立十思保育園の建物の

中にジヲラマだか模型が展示されているみたいです。














たしかに『埋門』らしき門が2つ見えるんですけど、両方ともずいぶん縦長で、上部の

「櫓(やぐら)」のような部分が、やたらに大きいのです。万が一の時に、上から「堰板」

(せきいた)のようなものが落ちてくるような工夫でもしてあったのでしょうか、、、?

それとも本当は松山城の『埋門』みたいに窓があって、弓矢でも放てたのか、、、?

(だとしても誰がどこから上に登って操作したり矢を放ったりしたんでしょうか、、、?)






                  伝馬町牢屋敷と市ヶ谷監獄 その3 につづく









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする