Kennyのブログあれこれ

写真付きで日記や趣味を書くあれこれ

菊(モッテノホカ)・綿

2012-11-01 21:29:19 | 日記
11月1日 (木)  晴れ

朝の陽の出

ちょっと、寒いが散歩へ。
あまり早いと、犬も尻ごみする。

こんなのが有った。・・思い出した、サラ川に
”定年後・犬も嫌がる・5度目の散歩”
”ご飯よ~・行ってみれば・ポチだった”
これって傑作だ。
何か川柳でも出来ないかと考え考え歩けども
今日の個人スケジュールに思考が傾く・・・
そうだ先輩からいただいたニンニクを植えよう!とか
玉葱苗を植えなくってはとか・・・雑念が覆いかぶさって
帰宅。

晴れてきそうだ・・・
菊鉢に水をくれて、毎月1日は家の廻りをお塩でお清め!
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暖房が欲しい時節が来た。
ガスストーブを2台セットした。

こんな時期になると、若いころ考えもしなかった事が
体に起こって来る。
一例を示せば、先ず足の踵がザラザラしてきて
放っておくとひび割れを起こす。これが痛いんだ!
風呂で踵を軽石モドキでこすって、ワセリン等を塗り込んでおくと
なんとか保てるが・・・・

皿洗いを良くする、ご主人ロボットの様な亭主業をやっているので
お湯を使って油断すると、指の先が割れる。

体に?皮膚組織に・・油が足りないんだ!
自給出来なくなってきたんだなあ~!もう。

油以外も殆んど不足してきているこの身体だ・・・

これから、ますます厳しくなるんだ・・年はとりたくないと
父母が言っていたが、その年齢にもうどっぷり入っている。

親の意見と茄子びの花は万に一つも無駄はねえ と教えてくれたが
当時は、その事自体がうるさかった!

今にして思えば、良く聞いておくんだったが・・・
 ”親孝行したい時、親はなし さればとて墓にふとんは着せられず”
 なんてのがあったなあ~!
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10時頃より、一番落ち着く家庭菜園場に・・・
ネギを一列抜いて、掘り起こして一気に大蒜(ニンニク)を
40個ほど植えてみた。
過去、一度も成功したことが無い!
多分、私があんまり大蒜が好きでないからだろうか?
植物もこちらが嫌い意思表示をしていると育たないものだ・・・。
多分、自然と手抜きをしてるんだろうな!

こんな実験が有って観葉植物だったかな・・
ゆったりと綺麗なクラシック音楽を聞かせて育てるとどんどん成長するらしい
逆にガラスを引っ掻いたような音を聞かせ続けると枯れてしまうそうだ。
彼らも、何処かわからないが、耳に変わるセンサーやディティクターを
持っているんだろう。SFではない本当の話だ。

食用の菊”モッテノホカ”が開き始めたので摘んだ!

面倒だ。


本日、酢の物だな!
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遊びで作った綿が出来た。




この綿で何をする?
アメリカの確かフォスターのオールドブラックジョウの歌でも
思い出して歌うかなあ~!
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スティーブン・コリンズ・フォスター

(Stephen Collins Foster、1826年7月4日 - 1864年1月13日)は、
ヘンリ・クレイ・ワークと並んで、19世紀半ばのアメリカ合衆国を代表する歌曲作曲家。

20年間に約200曲を作曲し、
その内訳は135曲のパーラーソングと
28曲のミンストレル歌曲である。

多くはメロディの親しみやすい黒人歌、農園歌、ラブソングや郷愁歌である
「アメリカ音楽の父」とも称される。
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主な作品
「おおスザンナ」(Oh, Susanna、1848年)
「草競馬」(Camptown Races、1850年)
「ネリー・ブライ」(Nelly Bly、1850年)
「故郷の人々」(「スワニー河」、Old Folks at Home (Swanee River)、1851年)
「主人は冷たい土の中に」(Massa's in De Cold Ground、1852年)
「ケンタッキーのわが家」(My Old Kentucky Home、1853年)[3]
「金髪のジェニー」(Jeannie With the Light Brown Hair、1854年)
「すべては終わりぬ」(「厳しい時代はもうやって来ない」、Hard Times Come Again No                                     More、1854年)
「オールド・ブラック・ジョー」(Old Black Joe、1860年)[
「夢見る人」(「夢路より」、Beautiful Dreamer、1862年)
「恋人よ窓を開け」(「君の窓を開けて 恋人よ」、Open Thy Lattice,Love)

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これについてはこんな記載も
アメリカでは歌われない黒人蔑視の「オールド・ブラック・ジョー」

スティーヴン・C・フォスターの「故郷の人々」「草競馬」「オールド・ブラック・ジョー」「おおスザンナ」などは、日本でも愛唱されている歌ですね。

ところが、本場(?)のアメリカでは、フォスターなんて知っている人はほとんどいない、
 とのこと。
というのは、フォスターの歌は、白人が黒人を笑いものにするために、
 黒人の物まねで歌うためのものだからだそうです。
 (正確には歌い、踊る、だそうですが)

「涙うちはらいて おもいでの歌を 歌わん」という美しい日本語の歌詞は、
 原語では「涙をお拭きなせぇ 奥様 もうお嘆きなさるな」てな感じだそうです。

「オールド・ブラック・ジョー」の歌っている黒人はアフリカから
 奴隷として連れられてきて、
 『わが友』というのはアフリカから一緒に連れてこられた黒人奴隷のこと、
 と知れば、気楽にフォスターの歌は歌えなくなりそう。
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しかし、この旋律は日本人のオセンチな感情に触れるといい感じだ!
少なくとも、私は好きな歌の一つである。



秋明菊・ 象山神社

2012-11-01 09:44:55 | 日記
11月1日  (木曜日) 晴れ



松代 象山神社の境内で撮った写真。

見たことが有るのに名前が出てこない。

最近、この様な事が増えた。覚えたつもりが、すぐに忘れる。

 アレアレ!そう!そうだね!で終わってしまう。
 とても気分が中途半端で良くない。それから数分経ってから、ソウ!アレだよと!
 もうどうでもよい事。になってしまう。

記憶の器の容積は皆同じはず、
やっぱり、興味があれば脳もその事にはコンセントレイトしているので
覚えるんだろうが。・・・だんだん淋しくなる。

昔の上司が言った!
先ず一番初めに忘れやすくなるのが固有名詞だ!と
人の名前や土地の名前などだそうだ。これはある程度仕方が無い。

危険なのは、日常使っている言葉や物の名を忘れることだそうだ。
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記憶させるに一番良い方法は

書いて覚えるのが一番いいとある学者から聞いた。
目と手を使って脳が働き、字を覚え、更にその映像が焼きついていくから・・

最近PCばかりで字は覚えなくなっている。読めても書けない!
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脳の賢い順はと・・・

①聞いただけで覚えてしまう。忘れない!(若い時は出来た)
②読んで覚えてしまう。
③書いて覚える。


今は①~③にも当てはまらなくなっている。

そこでどうすれば?

書いて書いて繰り返し書いて覚えるんだそうだ!
その気力と忍耐までもが失われつつある事の方がより怖いなあ~!と

最近の気持を記してみた。
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写真の花は思い出している途中に案内のガイドさん(S23生のユーミンさん)が
教えてくれた。
秋明菊 (しゅうめいぎく)と・・・
白い花はどちらかと言えば珍しいんだ、


これが赤い色だったら名前が思い出せたかも?・・な
言われてから、ソウソウ!そうだその花だと・・・
何気なく聞いて通り過ぎる時間とその時の記憶は何時まで続くのか・・・・!

さて~~~~~~~~~~~~~~~~~~~季節の花より
・金鳳花(きんぽうげ)科。の花とある。

・秋に、菊に似た花を咲かせるところからこの名前に。
・中国原産。 かなり昔、日本に渡来。

・漢名は「秋牡丹」。

・濃いピンク色の花は別名で貴船菊(きぶねぎく)。
京都の貴船地方に多いことによる。

・9月14日の誕生花(秋明菊)
・花言葉は「忍耐」(秋明菊)とある。

この花みたら忍耐だ!
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象山神社で見た花なので、由来と見学最中のスナップを
晴れてきて境内の紅葉が見事に輝いていた。








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御祭神は?
 黎明日本の礎を築いた、明治維新の大先覚者、
 佐久間象山先生の功績の偉大なることは論を待たない。

 遠大なる世界的国家観と、開国進取を基調とする象山思想は後世まで燐と輝き、
 今日の日本を啓示するシンボルとも伝えられている。

 先生は混迷する国情を憂え、烈しい気魂を以って身を投じて、
 国事に奔走する傍ら、切々たる心情を詩歌にも托し、時の幕府要路にも訴えた。

 その一首
 ”折にあへば散るもめでたし山ざくら
                めづるは花のさかりのみかは”
 


      は先生の決意を知るに十分である。


 大正二年象山殉難五十年祭を契機に、元大審院長横田秀雄博士の主唱で、
 神社創建の計画が進められ、
 地元をはじめ県下全市町村及び信濃教育会・全学校・全国関係者の協力によって、
 昭和十三年十一月三日県社として創建された。
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教育者象山

●天保7年,藩命により御城附月並講釈助となった。
 12月に教授になり、自宅においても門弟多く 文武の道を教授した。
 学童規則、学制意見書を藩老矢沢監物に上書した。

● 29歳の天保10年,神田お玉ケ池に象山書院を開き、多くの門弟を指導。
● 41歳の嘉永4年(1851年)江戸木挽町で五月塾を開く。
  勝海舟・坂本龍馬が入門し、
  その後吉田松陰・橋本左内・小林虎三郎等が門弟になる。

 主として経学と砲学を教授し、これに併せて フランス式歩兵操典によって調練を試みた。
 他藩からも招かれて洋式大砲の指導や築塁の方法等を講義した。その精神は、

 東洋の道徳、西洋の芸術、精粗遺さず表裏兼該し
     因りて以て民物を沢し国恩に報ぜん」


  という詩にあらわされている。
  この頃、象山を慕って教えを請う者は遂に一万五千人に達したという

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略年表から後半の部分を・・・・

四十四歳から九年間

 ペリーが軍艦七隻を率いて再来航したおり、
 上陸したペリーは象山の前まで来ると何と思ったか丁寧に会釈をしていった。
 横浜での警衛をみごと果たした直後、松陰密航事件に連座して投獄されたのち、
 松代に蟄居される。

 この間に高杉晋作・久坂玄瑞、山形半蔵・中岡慎太郎・石黒忠悳
 らが面会に訪れ、時世について、激論し、象山の学識に感動して去る。

五十四歳  

元治元年(1864)幕府の命で京都へ上る。
将軍家茂・一橋慶喜・山階宮・中川宮に公式合体開国を説いて活躍中七月十一日、
三条木屋町で狂信的攘夷派の凶刃に倒れ、
尊皇開国の石ずえとなって非業の最期を遂げる。


 上洛の当時、京都は攘夷論者の巣で不穏な空気が満ちていたため、
 西郷隆盛等から暗殺の危険があるため

「暫く他出する勿れ、必ずや命はないぞ」と忠告を受けたが

 「国が大事と思うならば、われの行動を止めるなかれ、
   われの死によって世の人が悟るところあるなら一命なにか惜しからん」
 


 と言って活躍をやめなかった。
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 この象山の死をもって示した行動が明治維新の扉を開けるきっかけとなり、
 その礎を築いたともいえる。

 その後、四年にして明治維新の世を迎え、象山の尊皇開国という
 憂国の至情がそのまま具現されたのであった

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長くなった。