Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

『戦場でワルツを』:アニメーションであること

2009-10-04 02:13:43 | アニメーション
雨がやんだから、という軽い気持ちで出かけていって観た『戦場でワルツを』、この上なく重い作品でした。まだ日本で一般公開される前の作品ですのでネタバレは避けたいのですが、この映画に言及する際に、ラストについてのコメントを避けるわけにはいきません。というのも、この映画は「真実」を巡る映画であり、それはラストで鮮烈に出現するからです。とはいえ、どこかミステリー仕立てにもなっているこの作品の謎解きをここでするわけではありません。ただ、「最後がどのような映像であったか」ということにだけ触れたいと思います。そこが気になる方で、今後一般公開された際に鑑賞を予定されている方は、読まないで下さい。…

あらすじ
冬のバー。映画監督のアリは、旧友とひさしぶりの再会を果たした。会話の途中、ふいにアリはあることに気付く。ある一時期の記憶が自分にはまったくないということに…。抜け落ちた過去。なぜ俺は覚えていない――?失った記憶を求めて、アリは当時を知る知人たちのもとへと旅に出る。(映画チラシより)

これでは何のことか分からないかもしれませんが、戦争映画です。要するに、アリからは20年前の戦争の記憶、しかもある一日だけの記憶がすっぽりと抜け落ちているのです。その「失われた時を求めて」聞き取り調査を始めるアリ。

映画の内容には深く触れません。ぼくは、この映画を一つの「アニメーション映画」として鑑賞しました。もちろん文字通りの意味でこれはアニメーション映画なのですが、それだけではなく、アニメーションへの一つの挑戦、問題提起をするまさしく「問題作」と受け取ったため、カギカッコで括りました。

ドキュメンタリー映画で、戦争映画。内容も極めてシリアスで、リアルな現実描写を基礎にしています。このような作品がアニメーションである必然性はどこにあるのか?ぼくはそう考えながらこの映画を観ました。技術的なことはこのさい無視します。ただ、作品がアニメーションを要求しているのか、その一点のみを考えます。

この映画はいま述べたように基本はリアリズム路線ですが、ところどころに幻想的なシーンが挿入されます。ある登場人物の幻視する光景は明らかにリアルを超出しており、確かに実写では(今の技術であれば映像表現自体は不可能ではないにしても)他のシーンから浮いてしまう可能性があります。そこだけ『ロード・オブ・ザ・リング』では。また、この映画の核となるアリ自身の記憶の断片も、ある種の幻想であり、語弊を恐れずに言えば非常に神秘的でさえあります。それにはアニメーションの表現は適しているでしょう。ですが、そのシーンのためだけにアニメーションにするのはどうなのだろう?という疑問はどうしても残ります。うまくやれば実写でも撮影可能だったのではないか、と。

この疑問は、最後の最後に霧散しました。ついに真相に辿り着いたアリが見た凄惨な光景がこの映画のラストですが、そこだけ実写に切り替わります。そして無音のままエンドロール。これはどういうことか。ぼくはこう考えました。真実は実写でしか表現できないのだ(と監督は考えたのだ)。それまでの記憶を求めるアリの旅路は、アニメーションで描かれましたが、あくまでそれは真実に迫る旅であり、フィクションでも表現することができました。しかし、真実はフィクションではない。人間の死というものは、本当の意味でアニメーションでは表現できないのではないか。この映画では、ひょっとすると99%のアニメーション・パートというのは、最後の真実を引き立てるための装置に過ぎなかったのではないでしょうか。ぼくは、アニメーションの屈服する姿を眼前に見て、愕然としました。いや違う、アニメーションでもつらい現実は描けるはずだ。そう思いたいのですが、しかしラストの累々たる遺体の実写映像が、それまでのアニメーション映像をあらゆる意味ではるかに凌駕していたのは隠しようのない事実ではなかったか?死という現実、虐殺や戦争という現実をアニメーションは書くあたわざる表現媒体なのでしょうか。この映画はまさにその重い現実を観客に突きつけてきます。紛れもなく実写の力で。アニメーションは、それの引き立て役として、逆説的にそのような真実の表現に加担しているに過ぎません。

映画の内容自体も恐ろしく、こんなの観なきゃよかった、と後悔するほどでしたが、しかしアニメーションの限定的な意味での劣等性をも宣告しているようで、ぼくにはその点でもショッキングでした。アニメーションは虚構性を強調する媒体でしかないのでしょうか。虚構が逆説的に真実に近づく、という事例は、例えば福音書におけるイエスのたとえ話などがありますが、しかしそれは水面に映った自分の像を掴もうとするのに似て、どこか悲しげな行為に見えてしまいます。それとも、この間接性、この遠回り道こそが、やはり真実に対する人間の宿命であり、むしろこの道を通った方がより深いところにまで辿り着けるというのでしょうか。分からない…