下北沢で観てきてからやや時間が経ってしまったので印象も薄れつつありうまくレビューが書けるか不安ですがまあやってみます。
「プログラムC」の最初の作品はマクラレンの「ラブ・オン・ザ・ウィング」。いまいちピンとこない作品で、よく分からんなあと思っていたら、かなり初期に制作されたもののようです。
さて今日の目玉は「トゥトゥリ・プトゥリ夫人の旅」。目玉。と言っても必ずしもいい意味ばかりではないです。
この奇妙な題名は、ちょっと宮沢賢治の小説を思わせ、こういう言葉遊びを題名にするくらいだから、さぞやおもしろい(というのは先鋭的であり滑稽でもありという意味で)作品なのだろうと予想していたら、その期待は思いっきり裏切られました。ホラーじゃん。ぼくは思うのですが、この作品のアンバランスさというものは、どうやらこの題名に既にそして象徴的に現れているのではないでしょうか。
冒頭は、荷物が大行列をなして夫人の後に続いているシーン。これは彼女の荷物なのか(現実にはありえない量ですが、アニメなのでアリかなと思った)、それとも違うのか。彼女は線路の前に佇み、電車の来るのを待っているように見えます。誇張された手荷物の多さといい、抒情的な風情といい、どこか牧歌的な、楽しくてちょっとジーンとくるタイプのアニメーションかな、と思わせる冒頭の演出。
夫人はいつの間にか車内に腰掛けており、本を読んでいます(この「いつの間にか」というのが実は曲者かもしれません、というのも、ここから先の出来事は全て幻想ないし夢である可能性が高いからです)。彼女の表情を観察していると、あることに気が付きます。目がリアルすぎる!基本は人形アニメーションのはずですが、目だけがどうやら人間の目なのです。他の乗客にも視線を移すと、また別のことに「あれ」と思います。顔がやけに醜いのです。夫人の前に座っている、卑猥な仕草をして彼女を怯えさせる男の顔が醜いのはまだ納得できるとしても、すぐそばで寝ている男の子の顔までが、異様に醜く、肌が爛れているのです。ブラザーズ・クエイの人形たちが傷つき汚れているのは、彼らが人間を模倣しているのではなく、人形独自の世界を構築しようとしているからだ、と喝破したのは赤塚若樹氏ですが、これもそのような論理で作られているのでしょうか?しかし、目だけが人間のそれであるのは、矛盾しています。人間離れした容姿にしておきながら、リアルな人間の部分も入っている。このアンバランスさ。
次第に物語りは超現実的なものへ移り変わり、得体の知れない男たちが列車に侵入します。彼らは緑色の気体を車内に充満させようとして、列車に細工をします。それが睡眠効果のあるものかどうかははっきりしませんが、同じ室内にいた男は眠り呆け、夫人は薄目を開けて、男たちが室内に入ってくるのを見届けます。彼らは、眠っている男の腹を引き裂き、中から臓器を取り出して、それを持ち去ってゆきます。彼女は逃げるように室内から出て…。ところで、たしか最初は花柄だったはずの夫人の手袋が、いつしかぼろぼろになっています。全体的に言って、この作品の登場人物たちは肌がぼろぼろだし、またとても汚らしい。夫人の顔はきれいですが、しかしそれも相対的な評価であって、自由な創作物なのですからもっと肌を美しく見せることができたはずです。くすんでかさかさとして潤いに欠けるのは、なぜなのか。人間のリアルを追求しているのか、それともむしろ人形の存在感を浮き立たせようとしているのか。
物語は、蝶を追いかける夫人の姿が幻想的に輝くところで終わりますが、はっきり言って意味が分からない。けれどもそれ以上に不可解なのが、この作品全体に漂うアンバランスさです。両極端な哲学が同居していて、非常に奇妙な感覚を与えているのです。牧歌調とホラー調、クソリアリズムと反模倣、など。概して掴み所のない作品で、この曖昧さというか、奇妙な感覚を出すために、わざとこういう作りにしたのでしょうか。それは非常に戦略的な方法ですが、しかし後味が悪い。入口がお城で、入ってみると薄暗い廃墟、出口には神秘的な靄がかかっている、そんな作品です。一口ではなんとも形容しがたい、幻想的でもあり不気味でもあり抒情的でもあり神秘的でもある、得体の知れない作品。幾つか国際賞を受賞しているようですが、どこが評価されたのか知りたいです。
シュヴィツゲベルの「リタッチ」はいい作品でしたが飛ばして、レヴェスク「ネクタイ」もうっちゃり、コーデル・バーカーの「大暴走列車」について少し。
これはとても楽しい作品。運転手なき列車は大暴走をはじめ、前へ前へ突き進みます。二等車が投げ出されようがお構いなし。社会的な地位が水平的に展開されていて、新鮮(普通は「王と鳥」のように垂直構造)。ものすごくステレオタイプな一等車、二等車、三等車の描写に吹き出しそうになりますが、単純な絵と滑稽な物語にそれがよくマッチしていて、おもしろいです。スピーディだし、一級のユーモア作品だと思いました。
そうそう、横浜の映画祭、日程的にちょっと厳しそうです。無理して行くほどの作品が上映されているのかどうか…。横浜ではアニメーション関係の催しが意外とあるので、まあいい機会がきたら、ということで。(そういえば昔、文学散歩で行ったことあるなあ…)
「プログラムC」の最初の作品はマクラレンの「ラブ・オン・ザ・ウィング」。いまいちピンとこない作品で、よく分からんなあと思っていたら、かなり初期に制作されたもののようです。
さて今日の目玉は「トゥトゥリ・プトゥリ夫人の旅」。目玉。と言っても必ずしもいい意味ばかりではないです。
この奇妙な題名は、ちょっと宮沢賢治の小説を思わせ、こういう言葉遊びを題名にするくらいだから、さぞやおもしろい(というのは先鋭的であり滑稽でもありという意味で)作品なのだろうと予想していたら、その期待は思いっきり裏切られました。ホラーじゃん。ぼくは思うのですが、この作品のアンバランスさというものは、どうやらこの題名に既にそして象徴的に現れているのではないでしょうか。
冒頭は、荷物が大行列をなして夫人の後に続いているシーン。これは彼女の荷物なのか(現実にはありえない量ですが、アニメなのでアリかなと思った)、それとも違うのか。彼女は線路の前に佇み、電車の来るのを待っているように見えます。誇張された手荷物の多さといい、抒情的な風情といい、どこか牧歌的な、楽しくてちょっとジーンとくるタイプのアニメーションかな、と思わせる冒頭の演出。
夫人はいつの間にか車内に腰掛けており、本を読んでいます(この「いつの間にか」というのが実は曲者かもしれません、というのも、ここから先の出来事は全て幻想ないし夢である可能性が高いからです)。彼女の表情を観察していると、あることに気が付きます。目がリアルすぎる!基本は人形アニメーションのはずですが、目だけがどうやら人間の目なのです。他の乗客にも視線を移すと、また別のことに「あれ」と思います。顔がやけに醜いのです。夫人の前に座っている、卑猥な仕草をして彼女を怯えさせる男の顔が醜いのはまだ納得できるとしても、すぐそばで寝ている男の子の顔までが、異様に醜く、肌が爛れているのです。ブラザーズ・クエイの人形たちが傷つき汚れているのは、彼らが人間を模倣しているのではなく、人形独自の世界を構築しようとしているからだ、と喝破したのは赤塚若樹氏ですが、これもそのような論理で作られているのでしょうか?しかし、目だけが人間のそれであるのは、矛盾しています。人間離れした容姿にしておきながら、リアルな人間の部分も入っている。このアンバランスさ。
次第に物語りは超現実的なものへ移り変わり、得体の知れない男たちが列車に侵入します。彼らは緑色の気体を車内に充満させようとして、列車に細工をします。それが睡眠効果のあるものかどうかははっきりしませんが、同じ室内にいた男は眠り呆け、夫人は薄目を開けて、男たちが室内に入ってくるのを見届けます。彼らは、眠っている男の腹を引き裂き、中から臓器を取り出して、それを持ち去ってゆきます。彼女は逃げるように室内から出て…。ところで、たしか最初は花柄だったはずの夫人の手袋が、いつしかぼろぼろになっています。全体的に言って、この作品の登場人物たちは肌がぼろぼろだし、またとても汚らしい。夫人の顔はきれいですが、しかしそれも相対的な評価であって、自由な創作物なのですからもっと肌を美しく見せることができたはずです。くすんでかさかさとして潤いに欠けるのは、なぜなのか。人間のリアルを追求しているのか、それともむしろ人形の存在感を浮き立たせようとしているのか。
物語は、蝶を追いかける夫人の姿が幻想的に輝くところで終わりますが、はっきり言って意味が分からない。けれどもそれ以上に不可解なのが、この作品全体に漂うアンバランスさです。両極端な哲学が同居していて、非常に奇妙な感覚を与えているのです。牧歌調とホラー調、クソリアリズムと反模倣、など。概して掴み所のない作品で、この曖昧さというか、奇妙な感覚を出すために、わざとこういう作りにしたのでしょうか。それは非常に戦略的な方法ですが、しかし後味が悪い。入口がお城で、入ってみると薄暗い廃墟、出口には神秘的な靄がかかっている、そんな作品です。一口ではなんとも形容しがたい、幻想的でもあり不気味でもあり抒情的でもあり神秘的でもある、得体の知れない作品。幾つか国際賞を受賞しているようですが、どこが評価されたのか知りたいです。
シュヴィツゲベルの「リタッチ」はいい作品でしたが飛ばして、レヴェスク「ネクタイ」もうっちゃり、コーデル・バーカーの「大暴走列車」について少し。
これはとても楽しい作品。運転手なき列車は大暴走をはじめ、前へ前へ突き進みます。二等車が投げ出されようがお構いなし。社会的な地位が水平的に展開されていて、新鮮(普通は「王と鳥」のように垂直構造)。ものすごくステレオタイプな一等車、二等車、三等車の描写に吹き出しそうになりますが、単純な絵と滑稽な物語にそれがよくマッチしていて、おもしろいです。スピーディだし、一級のユーモア作品だと思いました。
そうそう、横浜の映画祭、日程的にちょっと厳しそうです。無理して行くほどの作品が上映されているのかどうか…。横浜ではアニメーション関係の催しが意外とあるので、まあいい機会がきたら、ということで。(そういえば昔、文学散歩で行ったことあるなあ…)