学校で講演会があったので行ってきました。
修士論文のことが頭から離れず、ほとんど何も聞いてませんでした。
8年前のこと、2001年の10月のシンポジウムのことを思い出します。
ぼくはまだこの大学の学生ではありませんでしたが、新聞でシンポジウムのことを知り、本郷まで出かけました。そこには、ソローキン、ペレーヴィン、トルスタヤ、アクーニンといった、錚々たるメンバーが椅子を並べて文学にまつわる話を聞かせてくれたのでした。現代ロシア文学の最前線を伝えるこのシンポジウムは、ぼくにとっては非常に大きな体験となりました。
当時のぼくはまだソローキンの名前さえ知らず、ロシア文学について全く何も知らない状態でシンポジウムの聴衆の一人となりました。当然ドストエフスキーやチェーホフは読んでいたものの、現代ロシア文学に関しては決定的に無知だったわけです。
この会場でぼくは『ロシア神秘小説集』を購入しました。たぶん題名につられて買ったのだと思います。その日ぼくは風邪を引いていて、声ががらがらで満足にしゃべれなかったのですが、販売員の男性と少し話をしました。ロシア文学についてだったかもしれません。もちろん、当時はこの本所収のソロヴィヨーフの論文がトドロフの幻想文学論に影響を与えた画期的なものだったことを知りませんでしたし、それどころか、トドロフの名前さえ聞いたことがないのでした。
何も知らなかったあの頃は真剣で、本当に真面目に作家らの話を聞いていました。今でも、ペレーヴィンがサングラスを外さない理由や、ソローキンが例のテロについて述べた見解を覚えています。
ところが今では、知っているというこの「知」が邪魔になって、ぼくからロシア文学に対する真剣さを失わせています。その「知」など所詮たかが知れているにもかかわらず、です。あれからぼくはソローキンを読み、そしてそこで購入したのだったか、ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』を読み、ペレーヴィンもアクーニンもトルスタヤも読み…ロシア文学の階段を着々と登ってきたのでしたが、大切なものを落としてきてしまったのかもしれません。
知らない、ということは武器です。真剣になることができるし、その結果大いなる感動を得られる。ぼくは自分がロシア文学に詳しいなどとは思っていませんが(ロシアの事情を知らないぼくにそんなことが言えるはずもない)、8年前のような単純で純粋な無垢、言葉の真正な意味における無知の状態にあるわけでもありません。知恵の悲しみ、などとグリボエードフを気取るわけでは毛頭ありませんが、これからは知らないことにも果敢に挑戦しなくてはいけないな、と思う次第です。日本語で書かれていないことの多くは知らないわけだから、外国語にはまた8年前のような気持ちで取り組めるのではないか、そう思うわけです。
バタイユを読んで、ふとそんなことを考えました。
修士論文のことが頭から離れず、ほとんど何も聞いてませんでした。
8年前のこと、2001年の10月のシンポジウムのことを思い出します。
ぼくはまだこの大学の学生ではありませんでしたが、新聞でシンポジウムのことを知り、本郷まで出かけました。そこには、ソローキン、ペレーヴィン、トルスタヤ、アクーニンといった、錚々たるメンバーが椅子を並べて文学にまつわる話を聞かせてくれたのでした。現代ロシア文学の最前線を伝えるこのシンポジウムは、ぼくにとっては非常に大きな体験となりました。
当時のぼくはまだソローキンの名前さえ知らず、ロシア文学について全く何も知らない状態でシンポジウムの聴衆の一人となりました。当然ドストエフスキーやチェーホフは読んでいたものの、現代ロシア文学に関しては決定的に無知だったわけです。
この会場でぼくは『ロシア神秘小説集』を購入しました。たぶん題名につられて買ったのだと思います。その日ぼくは風邪を引いていて、声ががらがらで満足にしゃべれなかったのですが、販売員の男性と少し話をしました。ロシア文学についてだったかもしれません。もちろん、当時はこの本所収のソロヴィヨーフの論文がトドロフの幻想文学論に影響を与えた画期的なものだったことを知りませんでしたし、それどころか、トドロフの名前さえ聞いたことがないのでした。
何も知らなかったあの頃は真剣で、本当に真面目に作家らの話を聞いていました。今でも、ペレーヴィンがサングラスを外さない理由や、ソローキンが例のテロについて述べた見解を覚えています。
ところが今では、知っているというこの「知」が邪魔になって、ぼくからロシア文学に対する真剣さを失わせています。その「知」など所詮たかが知れているにもかかわらず、です。あれからぼくはソローキンを読み、そしてそこで購入したのだったか、ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』を読み、ペレーヴィンもアクーニンもトルスタヤも読み…ロシア文学の階段を着々と登ってきたのでしたが、大切なものを落としてきてしまったのかもしれません。
知らない、ということは武器です。真剣になることができるし、その結果大いなる感動を得られる。ぼくは自分がロシア文学に詳しいなどとは思っていませんが(ロシアの事情を知らないぼくにそんなことが言えるはずもない)、8年前のような単純で純粋な無垢、言葉の真正な意味における無知の状態にあるわけでもありません。知恵の悲しみ、などとグリボエードフを気取るわけでは毛頭ありませんが、これからは知らないことにも果敢に挑戦しなくてはいけないな、と思う次第です。日本語で書かれていないことの多くは知らないわけだから、外国語にはまた8年前のような気持ちで取り組めるのではないか、そう思うわけです。
バタイユを読んで、ふとそんなことを考えました。