今年になってハルムスの小説の翻訳が2冊同時刊行。そういう時なのですね。
一冊は、増本浩子・ヴァレリー・グレチュコ訳『ハルムスの世界』
もう一冊は、田中隆訳『ズディグル・アプルル』
増本さんはドイツ文学研究者、グレチュコ氏はロシア文学研究者です。二人は夫妻で、共訳。田中隆氏については知りません。略歴を見ると、高校卒業後にロシアに渡った、とありますが、研究者じゃないんですかね。
ハルムスは20世紀前半のロシア作家。ロシア・アヴァンギャルドの最後の煌めきと言えます。その作風は異様で、まず超短い。ショートショートよりもずっと短くて、いわゆる超短編です。滑稽で不思議で唖然とするような話が多いのが特徴。まあしかしここではハルムスの紹介はおいといて、この二冊の本の説明。
『ハルムスの世界』には、全部で68編の短編が収められています。そのうちの約半分(30編)が「出来事(ケース)」という短編シリーズ。このシリーズが全部邦訳されたのはやはり画期的なことだと言わねばなりません。今までは、部分的には幾つか訳されていたのですが、全てが公に日の目を見たのは今回が初めてです。そして、その他の短編のセレクションが非常によい。ハルムスに関する欧米の研究書で比較的よく言及される重要な作品を中心に訳されており、初めての読者がハルムスの全体像を掴むのに適していると言えます。この『ハルムスの世界』を読めば、ハルムスの主要な作品のうちかなりの部分を読むことができるし、どういう作品がいま専門家の間で問題になっているのか、ということまで知ることができます。また、この本で特筆すべきは解説の多さ。本の真ん中と最後にグレチュコ氏のしっかりとしたハルムス論が掲載されており、加えて8つのコラムが適宜置かれています。というと、解説ばかりで堅苦しい印象を持たれる方もいらっしゃるかもしれませんが、コラムはどれも楽しい読み物風で、しかも読解に益するものばかり(ハルムスの読解のみならず20世紀のロシア文学全般の読解にも役立つ!)。
学者の訳したものなので、研究者に資する面もあり、また一方で一般の読者にも楽しめる。とてもバランスのとれたよい本ではないかと思います。お薦めです。それと、肝心の訳文ですが、さすがにうまいし、それにものすごく分かりやすい。あまりにも分かりやす過ぎる、という気がしなくもないほど。余白も多いので読みやすいです。ところで巻末の解説ですが、ハルムスを不条理文学の先駆者として捉えた論文になっています(論文というかハルムス案内書みたいな感じですが)。これは、欧米では一般的な見方で、ベケットやイヨネスコらに接続されて考えられるのが普通です。西洋の不条理文学の伝統という枠組みから見るか、それともロシア・アヴァンギャルドという枠組みから見るか、というのは議論の余地があるところですが(つまりインターナショナルかナショナルか)、現在の欧米におけるハルムス・ブームを考えたとき、ハルムスをより世界的な視野から眺めた方がいいのではないか、という主張はありうるので、これでいのかな、という気はしています。もちろん、両者は峻別されるものではないし、ロシア・アヴァンギャルド自体が西洋のアヴァンギャルド運動と関わっていると見ることもできるので、どちらか一方の視点だけ、というのはよくない。そういう意味では、今回のハルムス紹介は不条理文学の方へやや傾きすぎていたかもしれません。けれども、おいおい修正されてゆくでしょう。
長くなりましたが、一遍にやった方がいいと思うので、次、『ズディグル・アプルル』。こちらは、もしかすると『ハルムスの世界』とは対照的かも。まず、翻訳がまずい。まずい、と言うと怒られそうですが、こなれていないんですね。直訳風に訳していて、なんとなくぎこちない。『ハルムスの世界』がソフトな語り口だとすれば、こちらは訥弁。ただし、実はむしろこちらの方が、原書を読んでいる気にさせられました。ぼくのロシア語力がまずいせいもあるでしょうが、辞書にある通りに訳されている単語も多く、また原語で読むと文意は意味不明なんだけど単語は分かるんだよなあ、というところはこの翻訳でもそうなっており、そういう意味で、ハルムスのある種の難解さ(と言ったら語弊があるかもしれないが)がよく出ているんですね。そして、そういう作品を選んでいる、ということも大きい。意味不明の展開、脱線をする表題作など、ザーウミ(意味を超えた言葉)と思しき言葉も一杯あって、正直よく分からないんですよ。で、その分からなさがそのまま翻訳でも伝わるのです。うまく訳してしまうと、この感覚は逆に殺がれてしまうんじゃないかと思うので、翻訳のまずさがいい味を出しています。まあ、誤訳や誤字もありますけどね。ちなみに、これは日本人がロシア語でハルムスを読むときの感覚であって、ロシア人の感覚は『ハルムスの世界』の方に近いのかもしれません。が、実際のところ、うまく訳しすぎている部分もあるんですよねえ。
さて、この『ズディグル・アプルル』には100編が収められており、特徴的なのは作品の配列が時系列順であること。これはおもしろいですね。注意深く読んでゆくと、時代ごとの変遷が分かるかもしれません。そしてそのセレクションですが、これもまたおもしろい。主要なものも入っているのですが、今まで無視されてきたようなものもたくさん入っています。まず感じるのは、エロチックなものが目立つということ。『ハルムスの世界』の読者からすると、え、あのハルムスが!?と驚いてしまうこと請け合い。裸の女性の恥部、幼児凌辱など、意外の感に打たれる人は多いでしょう。もっとも、『ハルムスの世界』にも「名誉回復」という陰惨な話が入っていましたがね。
この作品集からは、反道徳性、あるいは世間に対する挑発といった姿勢が透けて見えてきます。不条理や笑いだけには括られない、ハルムスの闇の部分と言えるかもしれません。まあ、不条理だって人間の実存的不安に依って立つのだとしたら、闇の部分なのかもしれませんが。
まずは『ハルムスの世界』に入門し、それから『ズディグル・アプルル』へと向かうのがいいでしょう。前者ではハルムスの不思議な世界が、後者では不思議なだけにとどまらない、底知れぬ深淵がぽっかりと口をあけて待っていることでしょう。いわば、前者が初心者向け、後者が上級者向けですね。2冊あれば、ハルムスのかなりの作品を読んだことになるし、ハルムスの様々な面を知ることができるでしょう。大量の短い作品を一遍に読むのはかなりしんどいので、ゆっくりと幾日かに分け読み進めてゆくのがいいと思います。って、老婆心?
ちなみに、『ハルムスの小さな船』という小さなアンソロジーも2007年(だったっけ?)に出版されています。3冊あればなおよい。
一冊は、増本浩子・ヴァレリー・グレチュコ訳『ハルムスの世界』
もう一冊は、田中隆訳『ズディグル・アプルル』
増本さんはドイツ文学研究者、グレチュコ氏はロシア文学研究者です。二人は夫妻で、共訳。田中隆氏については知りません。略歴を見ると、高校卒業後にロシアに渡った、とありますが、研究者じゃないんですかね。
ハルムスは20世紀前半のロシア作家。ロシア・アヴァンギャルドの最後の煌めきと言えます。その作風は異様で、まず超短い。ショートショートよりもずっと短くて、いわゆる超短編です。滑稽で不思議で唖然とするような話が多いのが特徴。まあしかしここではハルムスの紹介はおいといて、この二冊の本の説明。
『ハルムスの世界』には、全部で68編の短編が収められています。そのうちの約半分(30編)が「出来事(ケース)」という短編シリーズ。このシリーズが全部邦訳されたのはやはり画期的なことだと言わねばなりません。今までは、部分的には幾つか訳されていたのですが、全てが公に日の目を見たのは今回が初めてです。そして、その他の短編のセレクションが非常によい。ハルムスに関する欧米の研究書で比較的よく言及される重要な作品を中心に訳されており、初めての読者がハルムスの全体像を掴むのに適していると言えます。この『ハルムスの世界』を読めば、ハルムスの主要な作品のうちかなりの部分を読むことができるし、どういう作品がいま専門家の間で問題になっているのか、ということまで知ることができます。また、この本で特筆すべきは解説の多さ。本の真ん中と最後にグレチュコ氏のしっかりとしたハルムス論が掲載されており、加えて8つのコラムが適宜置かれています。というと、解説ばかりで堅苦しい印象を持たれる方もいらっしゃるかもしれませんが、コラムはどれも楽しい読み物風で、しかも読解に益するものばかり(ハルムスの読解のみならず20世紀のロシア文学全般の読解にも役立つ!)。
学者の訳したものなので、研究者に資する面もあり、また一方で一般の読者にも楽しめる。とてもバランスのとれたよい本ではないかと思います。お薦めです。それと、肝心の訳文ですが、さすがにうまいし、それにものすごく分かりやすい。あまりにも分かりやす過ぎる、という気がしなくもないほど。余白も多いので読みやすいです。ところで巻末の解説ですが、ハルムスを不条理文学の先駆者として捉えた論文になっています(論文というかハルムス案内書みたいな感じですが)。これは、欧米では一般的な見方で、ベケットやイヨネスコらに接続されて考えられるのが普通です。西洋の不条理文学の伝統という枠組みから見るか、それともロシア・アヴァンギャルドという枠組みから見るか、というのは議論の余地があるところですが(つまりインターナショナルかナショナルか)、現在の欧米におけるハルムス・ブームを考えたとき、ハルムスをより世界的な視野から眺めた方がいいのではないか、という主張はありうるので、これでいのかな、という気はしています。もちろん、両者は峻別されるものではないし、ロシア・アヴァンギャルド自体が西洋のアヴァンギャルド運動と関わっていると見ることもできるので、どちらか一方の視点だけ、というのはよくない。そういう意味では、今回のハルムス紹介は不条理文学の方へやや傾きすぎていたかもしれません。けれども、おいおい修正されてゆくでしょう。
長くなりましたが、一遍にやった方がいいと思うので、次、『ズディグル・アプルル』。こちらは、もしかすると『ハルムスの世界』とは対照的かも。まず、翻訳がまずい。まずい、と言うと怒られそうですが、こなれていないんですね。直訳風に訳していて、なんとなくぎこちない。『ハルムスの世界』がソフトな語り口だとすれば、こちらは訥弁。ただし、実はむしろこちらの方が、原書を読んでいる気にさせられました。ぼくのロシア語力がまずいせいもあるでしょうが、辞書にある通りに訳されている単語も多く、また原語で読むと文意は意味不明なんだけど単語は分かるんだよなあ、というところはこの翻訳でもそうなっており、そういう意味で、ハルムスのある種の難解さ(と言ったら語弊があるかもしれないが)がよく出ているんですね。そして、そういう作品を選んでいる、ということも大きい。意味不明の展開、脱線をする表題作など、ザーウミ(意味を超えた言葉)と思しき言葉も一杯あって、正直よく分からないんですよ。で、その分からなさがそのまま翻訳でも伝わるのです。うまく訳してしまうと、この感覚は逆に殺がれてしまうんじゃないかと思うので、翻訳のまずさがいい味を出しています。まあ、誤訳や誤字もありますけどね。ちなみに、これは日本人がロシア語でハルムスを読むときの感覚であって、ロシア人の感覚は『ハルムスの世界』の方に近いのかもしれません。が、実際のところ、うまく訳しすぎている部分もあるんですよねえ。
さて、この『ズディグル・アプルル』には100編が収められており、特徴的なのは作品の配列が時系列順であること。これはおもしろいですね。注意深く読んでゆくと、時代ごとの変遷が分かるかもしれません。そしてそのセレクションですが、これもまたおもしろい。主要なものも入っているのですが、今まで無視されてきたようなものもたくさん入っています。まず感じるのは、エロチックなものが目立つということ。『ハルムスの世界』の読者からすると、え、あのハルムスが!?と驚いてしまうこと請け合い。裸の女性の恥部、幼児凌辱など、意外の感に打たれる人は多いでしょう。もっとも、『ハルムスの世界』にも「名誉回復」という陰惨な話が入っていましたがね。
この作品集からは、反道徳性、あるいは世間に対する挑発といった姿勢が透けて見えてきます。不条理や笑いだけには括られない、ハルムスの闇の部分と言えるかもしれません。まあ、不条理だって人間の実存的不安に依って立つのだとしたら、闇の部分なのかもしれませんが。
まずは『ハルムスの世界』に入門し、それから『ズディグル・アプルル』へと向かうのがいいでしょう。前者ではハルムスの不思議な世界が、後者では不思議なだけにとどまらない、底知れぬ深淵がぽっかりと口をあけて待っていることでしょう。いわば、前者が初心者向け、後者が上級者向けですね。2冊あれば、ハルムスのかなりの作品を読んだことになるし、ハルムスの様々な面を知ることができるでしょう。大量の短い作品を一遍に読むのはかなりしんどいので、ゆっくりと幾日かに分け読み進めてゆくのがいいと思います。って、老婆心?
ちなみに、『ハルムスの小さな船』という小さなアンソロジーも2007年(だったっけ?)に出版されています。3冊あればなおよい。