Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

神の子どもたちはみな踊る

2010-08-23 23:21:27 | 文学
村上春樹の有名な短編集をきのう読了。なかなかおもしろかったです。だいたいが1999年に書かれたものですが、この頃になるともう初期の短編の書き方ではなくなっていますね。まずはっきりと形に表れているのが、三人称ばかりだということ。最初の頃はほぼ全て一人称の「僕」でしたからね。

それにしても、村上春樹の小説の終わり方というのは非常に独特だと思う。物語が始まりかけたときに、突然糸が切れたみたいに終わってしまう。典型的なのは「アイロンのある風景」。焚き火に当たる二人がこのまま本当に死んでしまうのかどうか、何も語られないまま不意に終わる。余韻、というのとは違う気がします。「かえるくん、東京を救う」にしても、肝心要の格闘シーンを見せない。いわば物語の関節を外してしまう。重心を支える心棒をポキッと折ってしまう。この短編集の中には、一応の決着を描いているものもありますが、しかし多くの物語は重心を失って、どこかへ彷徨い出てしまう。まさしく、どこかへ。どこへとも知れないどこかへ。

神戸の地震に少しばかり関係する人物たちの様子を描いたこの短編集は、地震によって炙り出された、そこから遠くに住む人間たちの心の不安定さを見つめますが、それとこの奇妙なエンディングはパラレルな関係にあると言えるのでしょうか。イエスでありノーである、というのは一つの詭弁かもしれませんが、しかしこの短編集の不安げでゆらゆらした佇まいと地震で傷を負った人間の心の振動とは共振していること、また一方で春樹の他の小説でも同様のエンディングが見られることから、やはりそれはイエスでありノーである。

物語ることへの挑戦なのか、物語ることの諦めなのか、それとも物語の可能性を故意に孕ませているのか。よく分かりませんが、いずれにしろ、春樹は単なるストーリーテラーではないことは確かです。

それにしても、最後の短編「蜂蜜パイ」は決着を付けていて、しかも幸福へ向けて舵を切るところで終わっていて、掉尾を飾るに相応しい作品でした。まだ、やれる。そういう微かな光が射し込んできます。実はほとんど何も問題を解決していない作品なのですが、それにもかかわらず、幸福への強い意志が感じられる。甘ちゃん、と言われるかもしれないけれど、ぼくはこういう物語が好きです。